二〇〇一年、二月。今ここに、 下前幸一
二〇〇一年、二月。今ここに、僕はいる。 憂鬱な日々の繰り返しにさいなまれ、自らとのズレと自らへの希望と、自らの 喜びと痛みと、自らではありえない事実と、自らでしかありようのない現実とに、 かろうじて折り合いをつけながら。 だが、こことはどこか。それは不可能の場所。あらゆる存在が、不可能の印象 をまとい、あらゆる言説が、不可能の烙印を押されている。あらゆる対話は不可 能という本音を自らにさらし、言葉は、不可能の故に際限なく膨張し、繰り返さ れている。ここでは、何ものにも触れることは不可能であり、あることそのもの が不可能であり、可能へのジャンプは不可能である。対象を把握することは不可 能であり、対象との距離を測ることは不可能であり、対象と関係することは不可 能であり、つまり、自分であることが不可能なのだ。だが、可能であるとはそも そもどういうことなのだろうか。 僕はここにいる。しかし、ここは不可能の場所なのだ。ここがここであること が不可能なとき、その場所を僕たちはどのように名づけたらいいのだろう。 本当は、僕はいるべき場所にはいないのかもしれない。ここは、僕のいない場 所。いることのできない場所。僕ではないことにおいて、かろうじて存在の根拠 を与えられているような。それは虚の場所。僕であると名づけられた不在。 言葉をここに置くということ。それはあたりまえの僕が、あたりまえの君に語 るということではなく、それは候補者のいない不在者投票。あるいは、それは自 ら自身の記憶へとフィードバックする伝言。いつまでも鳴りつづける着メロ。壊 れたハードディスク。互換性のないデータ。無限への発信が、限りなく無へと漸 近するメールのネズミ講。あるいは、文字化け。 …