新日本文文学4月号
戦争の世紀は終り、もはや争いのない平和に生きる世紀となるはずであった 二十一世紀が始まったばかりなのに、その人類の切なる願いは無惨にも蹂躙さ れてこれまで以上の紛争、破壊と流血の時代を生きねばならない現実に直面し てしまった。わたしたちはその〈幻滅と憂うつ〉にとざされている。紛争や飢 餓で多くの民衆が、ことに幼い子らが犠牲にされ殺されている。 胸の内奥から、かつて日本の東北の貧しい農村で生まれたばかりの赤子が多 く〈間引〉かれるのに心痛めて野口雨情がうたった「しゃぼん玉きえた とば ずにきえた うまれてすぐに こわれてきえた 風、風、吹くな しゃぼん玉 とばそ」が溢れてきた。 昨年の九月十一日のニューヨークでの同時多発テロを理由に、プッシュはそ れへの報復攻撃をアフガンに開始し、テロ撲滅の正義の戦争だと全供界をまき こんでしまった。この戦争は、「終りのない戦争」だ。なぜなら、たとえ、ラ ディンを抹殺したところでテロは終らないからだ。 同時多発テロとアフガンの状況を伝え分析してみせるコメントや情報は、ア フガンの貧困と飢餓までを語りそこに原因があるという。けれどこの民族の貧 困と飢餓の根源的な原因である人種や民族に対する差別、宗教に村する〈差別〉 にまでふれるのは少い。 他者の生存と主体を脅かす〈差別〉がなくならない限り、それへの糾弾は終 らず、差別からの解放を求める民衆の抵抗はテロにまで深化する危険を孕み続 ける。テロへの戦争は、科学技術文明を誇る豊かな国の〈われわれ〉が差別を やめない限り続き、反テロ戦争は終りのない戦争であり続ける。その時、反テ ロは決して正義といえない。 村田 柘