耐えるんだよ

いつものように散歩の途中でバナナ二本を買って食べながら歩いていると
いつもの魔女のおばさんがのんびり歩いていて
いつものように僕はあわててポケットのコインを探し
二〇シルと残り一本のバナナをあげたんだ
その(怖い)顔も見ずに
「ちょっとだけど」と照れながら
そしたら魔女が言ったんだ
「ビー・ペイシャント(耐えるんだよ)」って
僕はまだ照れ笑いの最中で
彼女の言葉が左耳から右耳へと素通りしてしまった
しばらく歩き過ぎてから
その魔女の言葉が意識に登ってきた
「あれえあの魔女は知ってるのかなあ」

実はその頃
黒い肌の女性にふられたばかりで
それから何をしてもうまくいかず
どうしたらそれを打開できるかも分からず
鬱々と苦悶の日々を過ごしていたんだ
そんな時に
この魔女の言葉を耳にしてびっくりしたんだ

ところが振り返るとその魔女の姿はなく
道路から消え去っていたんだ
考えてみたら
彼女はいつもよれよれの格好で
緑と茶色と灰色で擬態している
緑は路傍の草葉色 茶色は木肌色 灰色は土色と
カメレオンのように風景の中にとけ込んでいなくなった

僕とその魔女のおばさんはとても似ている
僕はいつもランチをとったあと
のこのこと散歩に出かけるし
おばさんはおそらく晩飯代を稼ぐために
同じ頃物乞いに出かけてくるのだ
二人ともいつも町中をぶらぶら歩き回っている

アカスズメがしきりと電線の上で鳴いている
オリーブツグミが僕を胡散臭げに見下ろしている
機織鳥たちが枯れ葉をくわえて並んでいる
「耐えるんだよ」
まだ魔女の声が耳の奥で響いている




詩集「アフリカの日本難民」

 アフリカから届いた日本人の詩集ということで、近いのか遠いのか、その距離感が捉えられなくて不思議な感じがしました。
 筆者は農業技術者として、四半世紀のあいだ、「アフリカの河の水」を飲んできたということです。現在はアフリカのケニヤに在住。
 第一部の「アフリカ」では、長年アフリカで働くなかで、すっかりアフリカに洗脳され、教わり、感謝の祈りすら捧げているというアフリカというものが描かれています。私たちの画一的なアフリカのイメージというものが詩的な洞察と表現と想像力によって静かに揺さぶれれ、読み進めるうちにアフリカの懐へといざなわれます。作品「スラム点描」では実際のスラムを案内されているような気になりました。
 第二部の「日本難民」ではアフリカという光源に照らし出された日本難民の自分というものが問い直されています。否応なく人間がその原点に返されるアフリカのただ中で、その現実に問われ、洗われ、ふと立ち止まったとき、そこに見える自分自身というもの。そこに「耐えるんだよ」というアフリカの声が響いているでしょうか?
 日本難民などありえないという常識が、読者としての私の中で鋭く問われています。
 深く揺さぶられる詩集です。
               2010.11.4 下前幸一

詩集「アフリカの日本難民」
          おぎぜんた 著


             コールサック社 刊