幻肢痛
失ったはずの痛みに
脅かされる日常
たしかに在った手足の記憶が
神経に生きているのではなかったら
失った記憶は
どこへ隠されてしまうのだろう
すでに失った腕が痛むと
とうにないはずの脚が痛むのだと
喪失者たちは何度も病院へ足を運び
口々に痛みを訴えるのだった
ないはずの腕や脚が
痛むはずがないと
医者は思ったのだ
当初
確かに繋がっていた記憶は
切断によって
次第に
誤作動をひき起こし
混乱し
失った事を忘れて
或いは思い出して
激しい痛みとして
その存在を主張する
重ねてきた日々の記憶が
当たり前の身体の動きとして
記憶された脳には
ない腕が動く感覚を
切断した脚が大地を踏みしめる感触を
記憶として呼び戻す事ができるのだ
鏡に映った片割れを
満足げに見やる
首を傾げると
首を傾げる
瞬きすると
彼も瞬きする
愛の言葉を囁くと
そっくり同じ記憶に基づき
彼も囁き返す
そうして痛みを飼いならす事を
ミラーセラピーと言う
まだ、謎の多い解決法だが
胸の疼きは消え
喪失者たちは
眠りに落ちる事ができる
失った事により引き起こされる
脳の記憶の誤作動、或いは遅滞
失った腕は
切断された脚は
瞬間の激痛を確かに体内に刻む
麻酔の問中
麻痺させた激痛の記憶は、どこにあるのか
残った上腕
或いほ切り落とされた膝から下
その両方に等しく残るのか
喪失の記憶は徐々に遠ざかり
日常はすこし角度を変えて戻ってくる
それでも喪失者たちの
哀しい記憶の残骸たちが
時折突き刺さるのだ
残された身体と失った身体の狭間から
脳細胞を貫くような激痛として
存在を誇示するために
忘れない
喪失の代償は激痛でなくてはならない
「皮膚感覚」ということを思いました。皮膚感覚が詩を呼んでくるということと、逆に詩が皮膚感覚を開いていくということ。この詩集の詩、特に幻肢痛では、感覚というものが盤石な根
底ではなく、存在の確かさから切り離されたものだということが表されています。しかし私たちは感覚から出発するしかない。日常の皮膚感覚、言葉の皮膚感覚を何よりも大事にしている平岡さんは、そのことの危うさというか、そこに落ち着ききれない自分というものもまた自覚しています。そこから存在の方へ指向するということ。感覚を切り開き、その向こう側へと自らを開いていくこと。
自らの詩に対する自覚ということを感じさせる詩集です。 (下前)
幻肢痛−肢または肢の一部を切断後、患者があたかもその部分があるかのような痛みを感ずる状態、もしくはすでになくなっているのに先端があるように感じる症状。
「幻肢痛」 平岡けいこ
砂子屋書房刊