「いのちの聲」」 
         田川紀久雄 著
             漉林書房刊

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輝く光の中で自由になれる
いのちが楽しく歌いだしている
いのちは眼にはみえなくても
心の中で育てられている
育てられたいのちは
多くのいのちと共に光の中へと導かれてゆく
哀しんでいる人のところに行って
その人の心の中に降りていく
哀しんでいる心が光に向けて微笑んでいる
いのちがいのちを救い出している



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まず祈りの聲を
別に意味のあることばでなくてもよい
心の底から素直に浮き上がってきた言葉を
原始人たちが天に向けて叫んだように
そして大地を踏み鳴らそう
祈ることによって
心が裸になってゆく
あらゆる怯えから遠ざかれる




 二十数年のあいだ、詩語りという独特の領域で活動を続けてこられた田川紀久雄さんの詩集。あとがきで詩語りの稽古を禅の修業になぞらえて記してある。それは無の境地を求めるものであるが、無の境地とは葛藤と煩悩のただ中につかみうるものだということだ。言葉のいのちを語るということ。しかし悟りを得た瞬間に地獄に突き落とされる。永遠の繰り返しが、語りの極意への近道である。
 詩語りのそれでも崖をよじ登るような境地が、この詩集には凝集されている。いのちという言葉を軸にして、愛、夢、祈り、心、願い、迷い、幸せ、生きる、といった言葉がいのちの重心を分かち持つものとして散りばめられている。これらの言葉は容量が大きすぎて、普通、詩の言葉としては使いにくいものなのだが、「いのちの詩語り」として、自らの生き方のなかで何度も問い直された言葉として、発せられている。迷いつつ、遠い道を行き、ようやくたどり着いた「平易な」いのちの言葉である。読むとき、私たちもまた遠い道を覚悟しなければならない。「歎き 哀しみも/生きてゆくには必要なもの/それを温かく包んであげられる気持ちこそ/いのちの聲にほかならない」
 田川さん主宰の詩誌「操車場」で目にした末期癌日記には以下のような記述があった。「もう私の作品は詩ではないかもしれない。語りを通じていのちを語っているだけかもしれない」詩語りの境地だと言えるだろう。