そのひかりはどこから
闇の中にもかならずひかりがある
観えるときも
観えないときもある
苦しみ悩み絶望している時
静かに祈りを捧げていると
闇のいちばん奥深い所から
微かなひかりがさしていることを感じる
そのひかりは何処から射して来るのか解からないが
苦しみをいくらか和らげてくれる
――さあ、勇気を出して
そのひかりの中から聲が聴こえる
幼いとき私は年中床に臥せっていた
この子は長く生きられないだろうね
といわれた
まだペニシリンが手に入らない時代であった
年中肺炎に侵されていた
戦争が終わってなんとかそのペニシリンを手に入れることが出来た
それでも小学生時代はほとんど学校には行かなかった
私の唯一の友は
私と同じく病がちな友だった
その友も小学四年生の時に亡くなった
彼はいつも一冊の本を持っていた
黒い表紙の部厚い本だった
そこに何が書かれているのか
そのころの私は知らなかった
私も元気な時は日曜学校に彼と一緒に行っていた
そこに行けばなにかを貰えたからだ
イエス・キリストのことを聞いてもまったく関心がなかった
元気な時は野山を歩く事の方が楽しかった
中学生になった私は
いくらか身体も丈夫になっていた
でも授業はからっきし駄目だった
小学生時代はほとんど勉強していないのだから当然だった
母は勉強のことより病気をしないでいる事の方を喜んでいた
将来何になりたいのか考えてもいなかった
医者になってみたいと思っても頭が悪く
それに家にはお金が無かった
といって本を読むことも嫌いであったから
とうてい医者などになれる筈もなかった
そんな私がいま詩人として生きていることが不思議である
落ちこぼれの私は三十過ぎても何も目標など持っていない
喫茶店を開いても五年程で潰れてしまった
父母(ちちはは)も数年前に亡くなっていた
知的障害の妹を抱えては仕事にも付くことが出来なかった
喫茶店のお客にタイプ印刷の仕事をしている人がいて
その関係で漉林書房を立ち上げた
といってもお客がいるわけではなかった
そのころ幾人かの詩人との付き合いもあったので
詩の関係の仕事をするようになった
なぜそれから十年後に詩語りを思い立ったのだろう
私が四十の半ば過ぎに突然語りを始めた
それは幼いころの思い出があるからだ
赤面症の私は教科書を読むのが苦手だった
先生に指されても読むことなどできない
読まされるのが嫌で授業をさぼったりした
つまり人前で聲を出して読むことが恥ずかしかった
まあ人間嫌いといえばそれまでのこと
いまの私を思えば不思議な気もしてくる
そして六十の半ば過ぎて末期ガンの宣告を受けた
あと生きても半年だね
私はあなたと妹の事をおもうと悲しくなった
なんとしてでも生き抜く事だ
といっても自分では何もできない
暗闇の中で祈り続けるしかなかった
この詩語りが再開出来たらきっと生きられる
そのひかりはどこからか射してくるような気がした
なかの芸能小劇場での公演が待っている
生きねば
ただそれだけが私にとっての願いであった
(二〇一二年八月十二日)
「いのちのひかり」 田川 紀久雄 著
漉林書房 刊
「詩を書かずにはいられないから、詩をかいている。それが詩であるかどうかはわからない。だから詩集という文字は外してある。それは読み手が決めてくれると思っている。
ひとのいのちは明日どうなるか誰にも解らない。生きているうちが花なのだ。そう思うとどんどん詩集らしきものを上梓してゆきたい。特に詩人など死んでしまえば、誰も本を出してくれる人などいない。まして私のような人間はその可能性などゼロに近い。自己満足と言われようがかまわない。
末期ガンと宣告された時から、精一杯生きる事しか考えなくなった。あとさきのことなど何も気にしない。(あとがきより)」
詩の定義などは、たぶんどこにもないと思う。なぜかというと、詩は詩ではない場所へと滲み出していく運動のことだからだ。言葉が言葉の外へと、と言ってもいい。言葉ではないものをなんとかして言葉にしようとすること。言葉にできないものを目指すということ。だから詩はいつも動いている。詩は生きるということそのものだと言ってもいいかもしれない。
田川さんの詩は書斎や活字の中にはない。詩集はたぶん証しのようなものだろう。言葉が生きた証し。そして、言葉が今現在生きている場所は、田川さんの場合、「詩語り」の場所だろう。詩は活字としてではなく、声として、語りの場として、いのちのふるえとして、ある、そうありたいのだと思う。