父の小石
愛沢革
父のズボンのポケットに
紫色の小石があり
それは中国からもってきたらしいと
母は言った
戦争で父が歩いた中国のどこかから
手の平に入る
いびつな楕円形のそれをもってきた
いったいどこから? と想像すると
小石は重みを増した
ぼくの知らない
中国での父の振る舞いを
その石は知っている
河北省かもしれない
ならば
定県の溝里というところで
一九三八年二月十一日
京漢鉄道両側に無人区を設定するため
出動中
村の女子を一ケ所に集めたとき
最初は童女をからかっているうち
つぎつぎに女を壊辱し
ついに六十歳の老女まで襲い
三、四時間も輪姦し
歩行不能になつたもの何人かは
井戸に身投げし
また何人かは首を吊る破目におちいらしめた
あの「皇軍」部隊のなかに
父はいたのか?
それとも山西省か?
ならば
霊石県の双池というところで
山西省軍と八路軍に挟撃された
報復として
一九三八年二月二十日
近隣の村の婦女三十名を凄辱
人妻を輪姦するとき裸にして
その夫や子の前にさらし者にし
挙句の果て
軍刀で局部から首までつきさす兵士の出た
あの「皇軍」部隊に父はいたのか?
ひょっとして山東省か?
ならばその北西端 河北省と接する都市
東の黄河からの運河と衛河が合流するところ
臨清でのこと
一九四二年九月から十二月にかけて
横一列に部隊が並び
海岸に向かって東進
一週聞かけて農民をかたっぱしから捕らえる
「ウサギ狩り」をし
衛河の堤防を破壊して
濁流が天津近くまで
村々を呑みこみ
数千人が溺死し
穀物は枯れ
餓死と病死を蔓延せしめた
あの「皇軍」部隊か
あるいはそのとき
黄河の堤防の上に一軒家を見つけ
年寄りと若夫婦と小さい子ども二人
一家五人がいたので
隊長、どうしますか
と聞くと
殺せ というので
五人の体をくっつけて並べさせ
一発の弾で撃ち殺した
あの兵隊か
翌日 部隊出発の前
空が白みだしたころ見に行くと
爺さんは絶命
若夫婦も絶命
上の子どもも死んでいたが
下の子どもは土間で仰向けになり
大きな目を開けて
隊長をにらんだ
それから五十年以上も経ったあと
その隊長に聞くと
復員して結婚し子どもが生まれ
その子が五歳になったとき
夜中にふっと起きて子どもの顔を見ると
あの夜明けの子どもの顔にだぶって見えた
そういって顔をゆがめたという
その「皇軍」部隊か
どの罪を犯したときの兵隊が
持ってきた石であったのか
六十年前 父が復員し
その十年後に自死したとき
ポケットに潜ませていた石
さらにその十年後に彼の息子が
母から譲り受けた
その紫色の小石
帝国に召集された青年が
日本鬼子(リーペンクイズ)となつた印
父たちの罪と恐怖の証
ぼくが父と母から手渡された
石
*
その石のことも
石のあった場所での出来事のことも
何も語らずに 父は
息子が六歳になつた
冬のある日に
逝ったんだ
幼い息子の顔を見て
自分のかつての行為の相手その頗を
まざまざと思い起こし 父は
そのときの相手にじっと見つめられているのを
感じたことがあるだろうか?
子煩悩なやさしい父親だったと
母の言う父
あの元隊長が戦後に味わった
胸苦しい瞬間と同じことが
父の中にも生まれたかどうか
母にも誰にも言わずに父は
逝ったんだ
殺されていく人間の苦しみを
その殺しをわが手が確かに犯したという恐ろしさを
今の今わが身になまなましく感じ 父は
「日本鬼子」に変わっていった自分を見つめ
傷ついた心でうなだれたことがあっただろうか?
この自分に罪があると感じ
血泥にまみれた手をみつめながら
取り返しのつかない過去の出発点に戻り
取り返しのつかない非道をやらずにすむ人生を
もう一度生さてみたいと 父は
必死に望んだのではなかろうか?
父は望みをかなえられず
紫色の小石を残して逝った
「ゆがんだ顔の時」を刻んだ
父たちよ
父に殺された人びとよ
いま石は
数多(あまた)のあなたたちのいのちと望みとが染み込んだ
深い紫色をして
ぼくの掌の上に託されている
父の小石をぼくはポケットに入れ
かつてそれがあった場所を訪ね
幸いに大人に育ったかつての中国の子どもたち
また 次の世代の子たちにも会い
四方山話をしたいんだ
そのときぼくは石を取り出し
父のことも話すだろう
彼らの父や母の詰も聞けるだろうか
そのときから父の紫色の小石が
「日本鬼子の印」ではない
人と人を結ぶ美しい碧玉として
生まれ変わるならば……
* ウサギ狩り 中国人男子を狩り集め、日本の炭鉱や土木工事現場で強制労働
させるために日本に送り込んだ。
詩人の金時鐘氏は本詩集の帯の文として以下のように記されている。「散文詩でない散文の詩。鎮めてはいられない記憶が詩行の中で破裂して、散文でなくてはならない散文になっていった詩だ」と。
たぶんとてもこの詩集の勘所をとらえた言葉だと思う。逆に言えば、言葉が散文としての流れをせき止められ、口をつぐむ、自らが言葉であることに耐えきれず、うめく、沈黙する、叫ぶ、その刹那。それでも言葉と
して踏みとどまろうとする言葉の意志としての場所に、おそらく詩の始まりがある。詩は石の沈黙に似ている。言葉としての記憶をはらんだ石。詩は石のたたずまいでそこにある。
石の沈黙は言葉の不在ではない。むしろその凝集である。石として凝固した記憶、歴史。その圧倒的なうご めきが、石の内部にはひしめいている。ほとばしる何ものかが、詩(石)のたたずまいを内破する。そのあふ
れ出すもの、あふれ迫りくるもの、過剰なもの、詩としては過ぎるもの。しかし、むしろ、詩としては過剰な 、この「散文性」、詩としてのたたずまいを破るもの、それこそがむしろ詩ではないのか。そこにしか詩の可能性というものはありえないのではないかと作者は問うているのではないか。石の記憶にこそ耳をすませ、と。