「新現代詩」で同席している若松丈太郎さんの本「福島核災棄民―町がメルトダウンしてしまった」。福島県南相馬市在住の詩人ですが、一被災者として、核災の渦中から、災厄のただ中から言葉を発しています。
「…前著を出版したとき、わたしは自分を〈原発難民〉と規定した。だが、一年余を経たいま、わたしは自分を〈核災棄民〉であると規定している」
「…中間貯蔵施設の設置などいつになることか。帰宅困難区域には、いつになったら帰れるのだろう。 立地町である双葉町内のアーチに〈原子力 正しい理解で 豊かなくらし〉〈原子力 郷土の発展 豊かな未来〉というスローガンが掲げられていた。ところが、皮肉なことに、3・11以前の双葉町では、使途を限定された交付金や寄付金によって建設した公共施設を維持する経費が増大した結果、財政が破綻し、そのためにさらに増設を受け入れなくてはならなくなるという底なしの泥沼にはまり込んでいた。そして、いまでは、人が住めない町になって、〈豊かな暮らし〉も〈豊かな未来〉もなくなってしまった。双葉町のアーチのスローガンには、オシフィエンチム強制収容所入口アーチの〈労働は自由をもたらす〉とあい通ずる欺瞞が感じられる。」
若松さんの詩を加藤登紀子さんが作曲し歌っておられます。本にはCDが付属しています。詩を紹介します。
神隠しされた街
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
サッカーゲームが終わって競技場から立ち去った
のではない
人びとの暮らしがひとつの都市からそっくり消えたのだ
ラジオで避難警報があって
「三日分の食料を準備してください」
多くの人は三日たてば帰れると思って
ちいさな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけをだいた老婆も
入院加療中の病人も
千百台のバスに乗って
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
鬼ごっこする子どもたちの歓声が
隣人との垣根ごしのあいさつが
郵便配達夫の自転車のベル音が
ボルシチを煮るにおいが
家々の窓の夜のあかりが
人びとの暮らしが
地図のうえからプリピャチ市が消えた
チェルノブイリ事故発生四〇時間後のことである
千百台のバスに乗って
プリピャチ市民が二時間のあいだにちりぢりに
近隣三村をあわせて四万九千人が消えた
四万九千人といえば
私の住む原町市の人口にひとしい
さらに
原子力発電所中心半径三〇kmゾーンは危険地帯とされ
十一日目の五月六日から三日のあいだに九万二千人が
あわせて約十五万人
人びとは一〇〇kmや一五〇km先の農村にちりぢりに消えた
半径三〇kmゾーンといえば
東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町 富岡町
楢葉町 浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村
小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約十五万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
事故六年のちに避難命令が出た村さえもある
事故八年のちの旧プリピャチ市に
私たちは入った
亀裂がはいったペーヴメントの
亀裂をひろげて雑草がたけだけしい
ツバメが飛んでいる
ハトが胸をふくらませている
チョウが草花に羽をやすめている
ハエがおちつきなく動いている
蚊柱が回転している
街路樹の葉が風に身をゆだねている
それなのに
人声のしない都市
人の歩いていない都市
四万五千の人びとがかくれんぼしている都市
鬼の私は捜しまわる
幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
台所のこんろにかけられたシチュー鍋
オフィスの机上のひろげたままの書類
ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
日がもう暮れる
鬼の私はとほうに暮れる
友だちがみんな神隠しにあってしまって
私は広場にひとり立ちつくす
デパートもホテルも
文化会館も学校も
集合住宅も
崩れはじめている
すべてはほろびへと向かう
人びとのいのちと
人びとがつくった都市と
ほろびをきそいあう
ストロンチウム九〇 半減期 二七・七年
セシウム一三七 半減期 三〇年
プルトニウム二三九 半減期二四四〇〇年
セシウムの放射線量が八分の一に減るまでに九〇年
致死量八倍のセシウムは九〇年後も生きものを殺しっづける
人は百年後のことに自分の手を下せないということであれば
人がプルトニウムを扱うのは不遜というべきか
捨てられた幼稚園の広場を歩く
雑草に踏み入れる
雑草に付着していた核種が舞いあがったにちがいない
肺は核種のまじった空気をとりこんだにちがいない
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない
私たちの神隠しはきょうかもしれない
うしろで子どもの声がした気がする
ふりむいてもだれもいない
なにかが背筋をぞくっと襲う
広場にひとり立ちつくす