雨音


水位が満ちたか
母の頭の中で
魚が水とともに溢れていた
カラフルな魚たち
母の脳細胞を砕くか

激しく尾ひれを振るわせる
母は口まで寄せてくる魚に
ことばを喰われる
母の三半規管から
音の入り口までふさいで
母は魚たちに
占領されたのか

水位が落ちて
消えた魚たち
だが母は空の胸内を埋めようと
深夜の廊下を
しのび足で歩く

真夜中の雨の音は
ことのほかに こたえるのです
私はどこからか聞こえてくる声を
傘の上で転がしている
消してはいけないことばを
繰り返しながら
梅雨の中を彷徨う

青梅は食べてはいけません
川で泳いではいけません
若い母の声だ
魚が嫌い
青い背の魚はなおさら
食べなかった
母よ

未明
なお降り続ける





詩集「川の構図」
        
 横田 英子 著              土曜美術社出版販売 発行

「器の定義」と題された詩二編から始まる詩集。器は風景であり、暮らしの文化であり、生活であり、様々な感情をたたえた私自身でもある。世界を器としてとらえ形象化したのはギリシアだったかインドだったか、そんなイメージを連想させる。器の中にたたえられ、そこからあふれでる森羅万象。翻弄され、おぼれ、あがき続ける私たちもまた器。
 それをどのように呼べばいいのか。著者の詩の背後にあって、あるときは微かに、またあるときは表立って詩の感情を律する「器」のイメージ。それはある種の原型? 物思いの底の方で、現れないままに思いを支える土台のようなもの? 日常のいろいろな風景や出来事を描いた詩の中にもそのようなものは働いていて、それそのものが読む私たちに働きかけるかのようだ。詩的な感傷のむこうに、しかし感傷のように不定形なものではなく、ある種の物質性として、仄かに感じられるもの。
 最後の方の「雨音」は詩集の中では最も印象に残った詩だけれども、基調低音のような「器」のイメージが効いていると思う。