反射


毛布はあたゝかい
そんなことはない
あたゝかいのは
あなたです

ダイヤモンドは
光るのではない
光を反射するだけだ

あたゝかいのは
あなたのいのち
あなたのこゝろ

冷たい石も
冷たい人も
あなたが
あたゝかくするのだ



詩集「希望」
         
 杉山 平一 著                      編集工房ノア 発行

 この詩集の全体において特徴的なのは著者の静かな「まなざし」だ。日常生活の折に触れて出会う人、もの、出来事に向けられるまなざし。
 まなざしは見る視線とは少し違う。見ることは、そこにある距離をおくことだけれど、まなざしは見ることよりもむしろ寄り添うことに近い。物事を対象として知るよりも、共感し寄り添うこと。まなざしがそういうものであるのは、それが自分自身をくぐり抜けたまなざしであるからだ。まなざしには温みがあり、湿り気があり、不安定さが、やわらかさがある。まなざしは身体をもつ視線であり、それ自身がいのちである視線だ。まなざしが見る風景、情景、すべてはまなざしによって発見される。それはある温みをもち、湿り気をもち、不安定で、やわらかい、いのちであり、身体であるものだ。 まなざしがそこに生み出す言葉は道具ではない。それは詩精神を運ぶ乗り物でもなければ、高尚な精神を生み出す魔法の杖でもない。それはある重みをもつ身体であり、不安定さ、やわらかさ、不確かさをその内部に抱えもつものである。言葉が道具としてではなく、それ自らの弱さ、不確かさ、あるいは芽生えをくぐり抜けて発せられるとき、言葉とまなざしはお互いがお互いを生み出すいのちの営みそのものに他ならない。
 老いとはいのちとしての言葉が枯れていくこと。かたくなになり、融通がきかなくなり、道具に堕してしまうこと。死んだ言葉の洪水に窒息し、侵され、やがてそのお仲間になってしまうということだ。
 しっかりとあなたの言葉は生きていますか?と静かに問いかける、九七歳の詩集に脱帽。