「口福台灣食堂紀行」ありがとうございました。
毎年のことなのですが、夏は熱中症すれすれを、犬みたいに浅い息をしながら配達していて、昼休みにもトラックはうだっていて、いたたまれない、考えられない、本も読めない毎日で、ただ鞄の中には松岡さんのこの詩集をずっと忍ばせている、そんな2012年、今年の夏だったのでした。
「歩くとめし。」のっけからすべてを言い切ってしまうすがすがしさは、いい。立ち止まり、思考するよりも、出会うこと、ものにあたって歩くこと。あいさつだけになって歩くこと。松岡さんの呼吸、鼓動、そして元気が伝わってきます。その元気はもちろん言葉の元気ですね。と言うよりも、言葉がまさに生れ出ようとするその始まりの場所の元気でしょうか。態度としてのあいさつ言葉、生きる、身体の中から、暮らしのたたずまいから発せられる言葉にさらされて、片言だけの「ニーハオ」や「プーヤオ」が自分自身にも跳ね返り、どれだけ体の内を跳ね回っていることか。いつかそんな感覚を私も経験したような気がします。その感覚を、詩編を歩きながら、もう一度経験したような読後感をもちました。そしてもう通り過ぎてしまったこと、忘れていたことに、改めて打ちのめされた気がしました。言葉がいま生まれでようとする場においては、思考はしゃらくさい。思考以前のうずきのようなものだけが確かだと思う。埔里、霧社、…市、バス停、そして食堂。台北、伊達邵、高雄…。歩く一歩ごとに風景がうずきに触れてくる。そして、やはり言葉であることに賭けている、言葉によって生きようとしている。
松岡文体のようなものが、形になりつつあるのだと思いました。
口福台灣食堂紀行
歩くとめし。
それだけでひとのかたちにかえっていく
歩いておりさえすれば
なにかが助かっているような気がする
荒物屋、焼き菓子屋、飾り札屋、
ちいさな商店がならんでいる
路につまれたキャベツや泥ネギ
魚屋をのぞけば漫波魚(マンボウ)の切り身
繁体字のにぎわいにもやられる
なにやらこそこそしたくなる
あおぞら床屋みたいなのがあった
ながい線香をつんだ荷車が停まっていた
ここでみるものはみなからだによい
黒糖饅頭ふたつください!
蒸籠の蓋をとりながら
阿婆がなにか言ったけどわからない
わからない、も愉しい
あいさつがあってよかった
あいさつとは態度のことだろう
路が岐かれている
えたいの知れないほうを択んでしまう
生活の残りがそこいらにちらかって
まども洗濯ものも耻かしい
ここにはぐまいな因のくらがりがある
分有したいたましい沈黙がある
知る、とは生まれるということだろう
からだの中まで触れにくる
ひかりのことをいうのだろう
「満腹食堂」にはだれもいなかった
聾はつけっぱなしのテレビだった
カウンターに洗いものの粥碗や
大皿がかさねられたままになっている
それが、なんかまぶしかった
こんなのがいつか
ひかりになるのだろうと思った
日本語でもかまうことはない
ごめんください!