憲法と靖国

 格調高い、空気のような

(中原)
 はじめてお便りいたします。どうぞよろしくお願いいたします。
 私は憲法について何の思想構築もありませず,更地状態ですので、主に質問と感想の形をとらせていただきますのであしからずご了承ください。

 憲法について。

 現行憲法はたいへん格調高い文体で綴られています。これは、長い戦争を経験し、生死の境界を生きぬいてきた両国が、人類にとって大切なものは何かという本質を捉えることができるにいたったからでしょう。それで、格調の高い条文を次々と綴ることができたのではないかと思います。そういう意味からも大変貴い憲法であり、もうこういう憲法はつくることはできないのだと思います。たくさんの人の生命の犠牲なくしてはできなかった現行憲法だと感じます。何しろ世界大戦が今度起きれば、地球自体が壊れてしまうのではないか、人類が生き残っているかどうかもわからないところですので。

 それではなぜこのような人類至高の精神の象徴であるような憲法を改正するのか。どこを改正するのか。疑問です。

 靖国問題について。

 ちかごろ急激に日本人の人間性の質が落ちたと感じます。火の無いところに煙をたたして、人を違法行為者、犯罪者にしてしまうところがです。人を貶める人間が非常に増えたと感じます。政治家も例外ではありません。一般大衆並の品位になっています。「神社へ行こうが、バザーに行こうが、私の勝手だ。文句があるか? 隣の輩に言われる筋合いはない。」というふうに。かつてケネディがアメリカ国民を高みに押し上げたように、政治家のパーソナリティの影響は大きいものがあります。国民性を高いところへと引き上げる力を日本の政治家に望みたい。

 赤字750兆円の経済危機に個人的な感情や、枝葉末節のことで、国を危機に落とす方向へ向けていくのは、政治家の本道ではない。政治家は一般大衆と違い、感情的、恣意的に行動しないものだと思う。政治家はおおいなるヴィジョンに従って行動するものと期待しているのですが。 諸外国とうまく、なかよく、波風たたせず外交をするのが政治家であり、一般大衆のように、あいつは嫌だ、こいつも嫌だ、というような恣意的レベルになってもらいたくないと考えます。

 以上ですが、質問感想の形をとらせていただきました。初めてのメールにいろいろとまどいやら失礼ありましょうが、不慣れでございますので、あしからずご了承下さい。


(下前)
 初めまして、よろしくお願いします。
 お互い面識もありませんし、どういう人物かという知識もないまま対談に入ることになりますが、それも一興かもしれません。手探りしながら進めることになると思いますが、よろしくお願いします。

 さて、憲法についてです。思想構築がないのは私も同様です。しかし、私たちには憲法を語る資格があるし、改憲が声高に叫ばれている今だからこそ、語る義務もまたあるのだと思います。なぜなら私たち一人一人が主権者であり、最高法規としての憲法に服することを時の権力者に命ずる者だからです。私たち一人一人が主体であるということをもう一度確かめることが大切だと思います。

 ご指摘のように、格調の高い文言ですが、憲法はうやうやしく神棚に祭られてきたわけではありません。むしろ憲法は戦後生まれの私にとっては、空気のようにアタリマエのものでもありました。それとして特に意識をすることもないまま、私はそれを呼吸し、食べてきたし、細胞の一つ一つに染み込ませてきたと思います。例えば、小学校の教室。そこにご真影や教育勅語はなく、学級委員は選挙によって選ばれ、家庭科の授業に男女の別はありませんでした。さらに言えば、私たちの将来の夢に「兵隊さんになる」という選択肢はありませんでした。憲法(九条)がそれを禁じていました。しかし、私たち子供にとってそれは一つの選択肢を奪われるということではなく、逆に大きなプレゼントだったのだと思います。

 中原さんにとって、憲法の肌触りというか、生活の中での実感はどのようなものだったでしょうか?



 「みんな」と「ひとり」

(中原)
 またお時間を頂きます。わずらわしいでしょうがお願い申し上げます。

 近頃韓国ブームで、韓国に徴兵制があるということを大人も若者も知ったわけですが、若者は徴兵制に違和感を感じています。この点から日本国憲法の美点が実感できたのかなと思いました。

 終戦になってアメリカが日本に来て、これでよく戦えたな、と思ったそうですから、日本人の恐さを知って、武器を持たせたら何をするかわからない、ということで、憲法9条ができたと聞いた事があります。そうでしょうか。また開戦前,山本五十六が1、2年しか戦えないと予見していたが、実際には数年も戦ったということで、日本人は好戦的なのでしょうか、どうでしょうか。高官である山本五十六でさえ、敗戦を予期していたけれど黙っていた。

 個人の意見がつぶされる風習がある国は恐いめに遭うのかなと思います。自殺サイトに集まった小人数の集団でさえ、自分の意見が言えず、死にたくないのに自殺してしまったという事件をみて感じました。「みんな」に価値があり「ひとり」に価値はない、あるいは軽視されるという風潮が根強くあります。

 組織というのは反対する人がいるから発展して行くのではないでしょうか。みんなにしたがって自分の意見をいわず,ぶつかり合いもなければ止揚もないからその組織は停滞し進歩は望めないと思いますが。まずは自分をアピールする事から始まるのではないのでしょうか。



(下前)
 最初に中原さんが指摘された憲法の格調高い文体のことに戻りますが、20歳、30歳台の頃の私は、むしろその格調高い文体のゆえに、憲法は自らの心棒にはなりえないもの、むしろ疑うべきもののように思えていました。なぜなら反憲法的な現実が身の回りにはあふれていましたし、なによりも現実(平和と繁栄)そのものが朝鮮、ベトナム戦争という血みどろの戦争を土台とし、飛躍台としてあったものだからです。憲法第九条の原理が、現実には日米安保によって日々毀損されているように、タテマエとしての憲法は、日々生きられるホンネとしての現実によって蚕食され、風化させられているかのようでした。

 中原さんが指摘された「みんな」に価値があり「ひとり」に価値はない風潮というのは、まさにこのホンネが露呈したものではないでしょうか。日本国憲法の一番の根っこは「個人の尊重」だと思いますが、そういう意味でも憲法は根腐れを起こしていると言えるかもしれません。マスコミも一体となって、今の日本の社会は「みんな」の暴走に歯止めがかからなくなっているのかもしれません。悪魔の北朝鮮、理解できない中国人、etc、次から次へと悪者を仕立て上げては、合唱し、消費していく日本人。しかし恐ろしいのは、その度ごとに社会全体が一歩一歩と後戻りのできない場所へと進みだしていくことです。どうしたらいいのでしょうか。

 私が今思うのは「ふと立ち止まる瞬間」を作るということです。憲法第九条は、怒涛のような侵略と敗戦と、廃墟の中に立ちすくむ日本人に「ふと立ち止まる瞬間」を与えました。今までの大きな流れを立ち止まってふと見ると、青空のようなビジョンが見えたのだと思います。残念ながらそのビジョンは、自衛隊の増強と日米安保によって崩されていきますが、その有効性は失われてはいません。憲法のような大きなことではなく、私たちは一人一人がそれぞれの「ふと立ち止まる瞬間」を持つことができるし、その瞬間のありようは人それぞれです。ただその瞬間に立ち上がるのは、号令ではなくて詩のようなものだという気がしています。



 「詩のようなもの」のちから

(中原)
 「詩のようなもの」とは、実に本質をとらえた言葉ですね。やはり、詩人は本質的なものの見方をするなあと感じます.本質をついた言葉は人を感動させますね。この言葉にめぐり合えて、人間というものは本当に底の深いものだとあらためて思いました。

 日本人は本質的価値観を持たないので、権威主義,権力志向に走るのではないのでしょうか。それは、文学をやらないからだと考えます。ヨーロッパのエリート教育の中心は文学、哲学だそうで、若いころから本質的価値観を徹底的に掌握する。だからでしょうか、EUに勢いがあります。日本は経済学、理数系などで就職に有利な学問が、若い人に人気です。会社にはいれば、マーケテング、いかに販売業績をあげるか、利益至上主義のノウハウのお勉強ですから、ものごとの本質を見ぬく洞察力は養えない。それで、マスコミのうけうり、地位の高いもののおことばをうのみにしてしまうのでしょう。マスコミのたたくものはみんなでたたく。トップのたたくものはみんなでたたく。

 荒川洋治さんが詩は実学だといっていましたが、詩は生きる本質に触れているからでしょう。生命に感動を与え、力を与える詩は実学なのでしょう。人間がこんな本質に触れた底の深いことをいうのだと感動すれば、生きる上で、励みと力になりますね。

 詩神というものは本当にあるのですね。詩人はある境に神となり、啓示のことばをいうのですね。日常の世俗にまみれていないことばを告げる。そして、人の魂を解放する。因習や習俗、固定観念に縛られている魂を解き放つ。
 「詩のようなもの」これは、啓示です。


(下前)
 本質という言葉に立ち止まってみたいと思います。本質と現象。これを少しズラして、理想と現実、あるいはタテマエとホンネ、と言い換え重ねてみましょうか。こういう言い方があります。憲法の理想は現実とかけ離れてしまったから、憲法を現実に合うように改正しましょう、と。二つの項があり、お互いの矛盾や距離がが大きくなったから、片方を操作して矛盾をなくしましょうという考え方。これら対する二つの言葉の関係は、調整し操作するというようなものなのでしょうか。

 先に、私は憲法は空気のようにアタリマエのものだった、と言い、また一方で憲法はタテマエだけのもので、ホンネとしての現実に蚕食され風化させられて、自らの心棒にはなりえないものだ、とも言いました。学校を中心にした子供の体験としては前者であり、青年となり世の中の現実を体験した感覚としては後者だったのです。どちらが正しいのでしょうか? たぶんこの矛盾する感覚のどちらもが正しいのであり、憲法が私たちの間で「生きている」ということの現れに他ならないのだと思います。憲法は現実的ではないと言いますが、他ならないこの現実を作ってきたのは憲法です。そして私たちは憲法を生きてきました。一人一人の人生の理想と現実に、憲法の理想と現実は深くからまっています。なるほど、憲法はアメリカに押し付けられたものかもしれませんが、戦争の悲惨を身をもって体験した当時の日本人には第九条は骨身にしみるものだったに違いありません。そのように、平和主義、基本的人権、国民主権を私たちは骨身にしみて知っています。

 現在の改憲論議には、葛藤もなく議論だけがかまびすしく空転している、という印象を私はもっています。理想を現実に合わせる、という発想がなんの躊躇もなく表明され、政治家、財界、マスコミも一体となって、風船のように空虚な議論をあおっています。これでいいのでしょうか? 大切なことは理想と現実の前で立ち止まること、そこに歴史という心棒を通すこと、自分自身の人生や生活の理想と現実を並べてみること、理想と現実の乖離、その葛藤を受け止めること、葛藤を深く葛藤し、そこからどう進むべきかを考えることではないでしょうか。「詩のようなもの」が立ち上がる土壌とはそのような場所なのだと、私は考えています。 



(中原)
 人は自分の願いや望みを実現するために生きているのだと国分康孝という人が言ってました。組織の中で建前と本音を使い分けて何十年生きてるうちには組織も腐ると思うし、人間もそうなるでしょう。安水さんの「うたう」という詩によくそのことが書かれてあります。自分を殺して生きることは、自分も組織もエネルギーが低下していくでしょう。組織の成員が自分をもっとアピールして生きることが得策だと思います。

 何が真理か、ということを測るめやすは、人間の生命や考えを大切にしている思想かどうかでしょう。人間の生命を大切にする思想は自然の法則に適うものですから真理です。

  いろいろ理屈や言葉の操作でまどわされてしまうのが大衆社会にありがちな弱点です。権威主義に陥らずに普遍的価値観を把握してマスコミなどに翻弄されずにいきたいものです。まさしく詩のようなものがそれをなしとげてくれるのではないでしょうか。

 これで私のほうは最終です。下前氏に後をまとめていただければと考えます。対談しているうちにわかったことがありました。ソクラテスではないけれど対話というのは、ひとりでは見えないものを見させてくれるのですね。

 ひと月ちかく対談しましたが、ありごとうございました。誠実なご返答をいただき感謝しています。くれぐれもおからだに気をつけて、詩による啓蒙をお続けくださるようお願い申し上げます。対談中、「詩のちらし」のホームページをよく拝見させていただきました。若い世代を詩の情熱に駆り立てる力となると思います。
 では、お元気で、さようなら。



 靖国問題と詩人

(下前)
 対談の最初に中原さんが出しておられた靖国問題に触れておきたいと思います。 中国や韓国などの強い抗議と中止要請にもかかわらず、小泉首相は靖国神社参拝の姿勢を崩しておらず、今や靖国問題は日中、日韓関係、ひいてはアジアにおける日本の位置、その将来を大きく毀損しかねない状況になっています。首相経験者をはじめ自民党の有力議員からも参拝自粛が進言され、マスコミや世論の動向も国益のために自粛すべきだという方向に流れているように思われます。

 靖国問題は外交の問題になってしまったかのようです。参拝自体になんら問題はないけれども、中国や韓国のわけのわからない反対派が強行に反対するから、とりあえずは自粛したほうがいい、というような。しかし、それでいいのでしょうか。中国や韓国の動向には関わりなく、靖国問題は私たち日本人が克服すべきものとしてあるのではないでしょうか。

 靖国は、その名のとおり国家を至上の価値とし、国家に殉じた者たちを英霊として祭る神社です。そこでは英霊への敬意と感謝の心はまっすぐに国家への忠誠へと変換され、様々な現実問題を、英霊に守られた美しい日本という虚偽意識へと回収していきます。靖国の原理は個人の尊重を原理とする日本国憲法とは真っ向から対立するものです。靖国問題は外交問題である以前に、私たち自身の問題であるのです。

 中原さんは「詩のようなもの」という言葉になにか強く感じられたようですが、まさしく「詩のようなもの」が戦意高揚のためにもちいられた歴史を忘れてはならないと思います。私たちはまだなにも克服してはいない、とも言えるのです。「詩のようなもの」の批評精神がこの現実の中で果たして有効なのかどうか、本当に問われているところだと思います。生きるために、より良く生きるために、詩は必要なのかどうか。詩は役に立つのかどうか。そのことが今、憲法問題、靖国問題を通じて問われているような気がしています。

 ますます旺盛な詩活動をなさってください。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。