あのあおを
積乱雲の空の下
僕は空を駆け貫けて
あのあおを手に入れたい
決して手に入らないあのあおを
この街はずっと昔に死んだ
僕が生まれる前のことだ
毎日空だけがやって来て
僕を毎日奪っている
積乱雲の空の下
僕は風を掴まえて
あのあおを手に入れたい
決して手に入らないあのあおを
ナイフを自分に切りつけて
僕は静かに目を瞑り
てつのあじをかんじていた
あのあおを手に入れたい
決して手に入らないあのあおを
友と出逢って
人と出逢って
僕は苦しい
人と出逢ったから
僕は苦しい
仮面を脱いだ
生身の人間と
真に出逢ったから
僕は苦しい
剥き出しの人間と
真に出逢ったから
僕は人が愛おしい
人がとても愛おしい
「またあした」 伊谷 たかや 著
コールサック社 刊
伊谷さんは一九七八年生まれ。高校卒業後、何度か職に就いたけれど、うまく人間関係が築けず、退職し、家に引きこもるようになったという。自殺願望に囚われたこともあり、行き難い生を生きてきた。
例えば、歯の痛み。わずかな、取るに足りない生理的な痛みが、自分にとっては天地を揺るがすほどの大問題になる。何も手につかず、何も考えられなくなってしまう。そんな時、自分の弱さをこてんぱんに知らされてしまう。身体の痛みだけのことではない。人のちょっとした言葉に傷ついてしまう。ちょっとした褒め言葉に舞い上がり、ちょっとした不承認に落ち込んでしまう。人は本当に「些細なこと」でできているのだと思う。本当に些細なことの積み重ねで…。だけどその「些細なこと」を素通りした論理や理想や思想など、何ほどのことかと思う。「些細なこと」のうごめく場で、のたうち回ることしか本当はできないのではないかとも思う。
伊谷さんのこの詩集「またあした」は社会に適応できない苦しい生を生きてきた若者の、それでも偽りなく自分を見つめ、詩という表現に結晶させてきた軌跡。たぶん、あらかじめ作品として考えられた言葉ではないし、詩集としてまとめることを目指した詩群でもないと思う。苦しみ抑圧からほとばしるように吐き出された言葉であり、吐き出した言葉をもう一度自分という場に投げ入れ、試してみる言葉だと思う。自分の中のある深さに届く言葉であれば、OK、それが詩だ。どこにも届かなければ、それもOK。失敗する自由が、詩にはある。伊谷さんの苦闘が、生きがたさを抱えたもうひとりの若者に届けばいいと思う。