宇宙に捧ぐ
星々は
研究者の目的のために
あるのではない
我々のいる大地も
私たちの目的のために
あるのではない
実用品が分解されるとき
私たちは
粒子の世界に
解放される
綜の平和
季節がくれば
茂らせる
太陽のせいだ
毎年 毎年
生産できるのは
GNPは
太陽のせいだ
緑の平和を
ないがしろにしては
GNPは
成り立たない
日常の出来事、物思いを書きつづった詩集です。
日常が非日常に飛躍するほど、過度の精神性を誇示するというわけではなく、また世の痛みを一心にひきうけるほど純朴ということでもなく、思いは等身大の日常空間に働き、等身大の純粋性あるいは汚れとともにあります。
そういう等身大の思いのどこにどのようにして詩が宿るかというと、それは空間とか余白にあると思います。言葉の運びにおいて、行を新たにすることによる余白。連と連の間の空白の持続、そして飛躍、着地。言葉がある場所で立ち止まるとき、そこにシャボン玉や泡に似た、余韻としての詩が動き始めます。そこにおいて問われるのは、その余韻が詩として自立しているかどうかということだろうと思います。言葉の自立と言い換えてもいいかもしれません。とは言っても私は「言葉の自立」ということの意味をつかんだ上で、これを書いているわけではありません。藤貫さんの詩集が「言葉の自立」という問題を立ち上げている、あるいはそこに直面している
のではないか、ということです。
震災と原発事故が言葉の中に影を落とすとき、詩がわずかに身震いをしている。そのことを通じて私たちは「言葉の自立」の問題を感じさせられるのだと思います。確かに何かが、言葉の何かが変わろうとしている。その何かの予感を開き、差し出す場所で、この詩集は閉じられています。その場所をつかむ言葉、その場所から発せられる言葉を捜すことが藤貫さんの課題だと言えるのではないでしょうか。
紹介する二編は等身大の思いという場所から一歩踏み出した感のある詩です。私は好感を持ちました。