そらのオシッコ―水の世紀
宇宙で オシツコはどのようにするのだろうか
疑問が浮かんだのは
昔 子どもの頃 道端に並んでツレションをして
誰が一番遠くまで飛ばせたかを自慢しあった時の
あの快感を想い出したからだが
宇宙の果てで オシッコを勢いよく飛ばせたらと
空想してみたから
宇宙は 地上とはまったく違う世界なので
オシッコは 地上のように飛ばすことができなくて
掃除機のホースのようなところに
個人用のアダプターをつけて出し
空気と一緒に吸引するわけで
宇宙の水は とても高価なものにつくから
スペースシャトルで
一トンの水を運ぶと 二十二億円もかかるから
コップ一杯の水は 四十万円にもつくわけで
一滴のオシッコも大切に
水を再利用しなければならず
自分たちの汗や 涙や 尿として排出した水分も
リサイクルして使うことになり
水は 非常に貴重な資源だから
地上で人間が飲む水は
世界全体の平均で一人一日二百リットルほどだが
宇宙飛行士の使用量は一日わずか三十リットルに制限され
飲む水 料理に使う水 体を洗う水 掃除の水も
すべて ずっと少ない量で済まさなければならず
地上で 水は 溢れるにまかせていることが多く
ローマのトレビの泉は噴水芸術の粋を見せているし
郊外にあるティポリ・ヴィラデステの十八の噴水も
百の噴水 オッパイの噴水から 噴き出す水は
並んでオシッコを飛ばしているより勢いがあり
ザルツブルク郊外のヘルブルン宮殿だって
いたずら好きの大司教の
水の仕掛けが 庭園のいたるところにあって
水の楽園であちこちから不意に水が噴き上げて
しぶきがかかってあわてることも
サンクトペテルブルク近郊の
ピョートルの夏の宮殿だって六十四の噴水があり
ライオンの口から水を二十メートルも噴き上げて見せ
ユーラシアやヨーロッパには水の庭園は数々あるが
地球の水を 宇宙へ運ぶということは
浮遊する「ミニ地球」の函に 生存を移すことで
無重力の異常な環境に適合できるように
人工的な衣食住の空間をつくるわけだが
衣の 船内服は普段着のデザインでもいいが
船外活動の宇宙服は一着一億円にもつき
水冷下着もまとわなければならず
食は 好きな料理を持っていくこともできるが
開発された三百種以上の宇宙食メニューから選び
天井からぶらさがっての食事も可能だが
無重力の船内での 大切な食事マナーは
水が飛び散らないように食べなければならないこと
住は 寝袋を壁にくっつけて寝ることもでき
横幅 奥行き一メートル 高さ二メートルの箱形の個室もあり
慣れると 快適な生活もできるというが
宇宙での生命維持で 何より健康対策が重要なので
筋肉が急激に衰え 骨がすかすかになっていくから
毎日二時間の筋力トレーニングが必要で
骨密度の低下を抑える薬も飲まねばならず
宇宙の一日は 九十分だから
日の出と 日の入りが四十五分毎にやってきて
体内時計がずれてきて 精神の変調も起こり得るし
宇宙放射線や 高エネルギー粒子の影響もあるから
地上の あたりまえが通用しない時間と空間は
莫大なお金をかけた限定生存の環境なので
勿論そこに 海も 川も 雨もあるわけでなく
ただ同然の 地球の水のあり様はさまざまだが
水の民族といわれてきたこの国に溢れる水は
湧水の 弘前・富田の清水(しっこ) 南津軽・渾神(いがみ)の清水や
月山山麓湧水群 忍野八海(おしのはっかい) 柿田川湧水群など
名水 名泉 名井 水源は列島の津々浦々にあり
箱根用水 玉川上水 横浜水道 琵琶湖疎水などの
導水の利用も あり余る水のお陰で
森と水の“くに”信州は 百水ありといわれてきたが
源流 渓谷 滝 湿原 池塘(ちとう)など水に潤う風土は
山紫水明のふるさとと呼ばれ
この頃は めっきり減ってきたといわれる
山間 田園の 水車のある風景だって
水力を利用しての 揚水 精米 製粉 陶土粉砕で
これほど水車が活躍している“くに”は世界で珍しく
水がある限り 人びとを集めては
ひとの心を繋ぐ役目を地上の流れる水はしているが
あまりに普通のように在るから
宇宙では 若田光一さんは「とてもおいしい」と
小さなコップ一杯 二十万円にもついた
おしっこ還元水で 乾杯をしてみせてくれたが
宇宙船の窓の外に浮かんで見える
水の惑星は青くて
関西詩人協会の総会やイベント、詩を朗読する詩人の会などでご一緒させていただくことのある原圭治さんの詩集。水をテーマにした詩を中心にした詩集です。
ヒロシマの「ミズヲ飲マセテ」からアフリカの飢餓へとつらなる水の叫び。チグリス・ユーフラテスからヨルダン川へ、対立と争いの地をぬって流れる夏の水。見た目にはわからない仮想水(バーチャルウォーター)、生命と地球のふくみ水。浸食する砂漠化、干上がった湖の枯れみず。地球温暖化により溶けていく極地、氷河の凍りみず。ペットボトルの水商品。水危機による「環境難民」。そしてこの国の水田の、水鏡。その光と影。よみがえるみず祭り。宇宙ステーションのおしっこ還元水。細胞レベルの新陳代謝から地球大の循環まで、水にまつわる情景と光景、知見と問題が提示されていく。
とりわけ最後の「そらのオシッコ」は鮮烈な印象を与える。宇宙空間という俯瞰する場所から発せられる視線。地球という生態系から切り離された極限での水の孤独。それゆえの視線の透明感。
原さんの言葉の運びは、開かれたまま置かれる文末に特徴がある。閉じないままで、差し出される文末。それは確かにある種の呼びかけの形ではあるのだけれども、確定したものやことへの呼びかけではないように感じる。むしろ呼びかける対象があいまいなまま、呼びかける自らもまたあいまいなまま、言葉を宙に浮かせている。そこにはあいまいで不確定なあるスペースが生成する。余白に言葉を置くのではなく、言葉が余白を生成するのだ。そこは主体も対象もあいまいなまま、揺さぶられ、足場をはずされ、その存在にある問いを付されるスペースだ。居心地がいいのか悪いのか、左右前後どちらに向かうべきなのか、自失する場所。開かれ。そこにはある未分明なある予感が動いている。 (下前)