雲を掴む 〜武陵源の怪
雲を掴むような話ではない 掴んだのだ
中国湖南省武陵源(ぶりょうげん*)風景地区 面積三六九平方`
琵琶湖の半分以上もあるのに
最初は地名すら無かった
そして二度目にここを訪ねたときなぜかぼくは
〈仙人の道〉に迷い込んでしまったのだ
道標の傍らに非時(ときじく)の橘の木が立っていた
その幹を三度叩くと
分厚いカーテンを引き開けるように霧が晴れ
大きな座布団型の雲を弟子に曳かせて
白髪の仙人が現れた
《おぬしは 卑弥呼の末裔(すえ)じゃな
これも仙縁というもの
案内しながらおもしろい話を聞かせて進ぜよう》
フィルターを二重にかけたような声に
勧められて雲に乗る
綿の魂みたいだが したたかな質感があり
踏み抜いて落ちる心配はない
弟子が雲の前部の端を丸めて引くと
勢いよく谷間に向かう
僕は雲の縁をしっかりと掴んだ
《あれが天子山 その中腹にあるのが御筆峰
仙女献花も見えるな
それに天然の山水画を並べた十里画廊
仙人橋もある さあて 飛ばすぞ
こちらが張家界(ちょうかかい) 天下第一橋 金鞭岩
千里相会はランデヴウの最中
みな峰の格好や伝説を取材して漢人たちが
最近 勝手に付けた名前なのじゃ》
見渡す限り刃物で真直ぐ切り落としたような
数百の奇峰 その岩の頂きから綱を下して
茸や薬草を採る先住民たち
このひと峯だけで日本三景に入るだろう
《今さら発見などとは片腹痛い
あの土家族(とかぞく)もわしらも何千年も前から
ここに住んでおる
土台 地元の役人が間抜けなのじゃ
北京の画家や写真家が凄い所があると指摘
八四年地元があわてて調査探検隊を出し
幻の秘境を発見したと公式に発表した
自分の省内で発見だとか探検隊を出すとか…
可笑しいのう》
丁度その頃 ベテランガイドが東京から
湖南省観光局に電話で尋ねると 相手は
この秘境を全く知らずぽかんとしていたという
《その後の変身ぶりがまた 凄まじかった
何にも無い原っぱに道が出来 ホテルが建った
駅が出来た ケーブルカーが動き出した
にわか作りの町に無数の土産物屋が並び
空港まで出来た》
―そして 発見されてから僅か十年足らずで
九二年には世界自然遺産に登録
九四年麓の町は大庸市から張家界市に改名
張家界という地名が有史以来
はじめて現れたのですね とぼく
《そうじや 武陵源という名も陶淵明の
桃源郷のモデル・省北の武陵村からの借り物じゃ
この辺り 太古は海の底だった
その地異天変と
ここ二十余りの桑田滄海ぶりに比べりゃ
おぬしが雲に乗ったことなぞ
なんの変哲もない当り前のことよ
わが身のランゲルハンス島を覗くほうが
ずっと難しいわさ さーて 降りるぞ》
仙人は優しくぼくを突き放した
ふんわりと着地したところは
〈空中田園〉という棚田であった
振り向くと仙人たちは硝子を拭き取ったように
姿を消していた
* 武陵源 湖南省にある中国最後の秘境。二十世紀
後半まで、地元の当局もその存在を知らず、一九
七九年部外者に発見されてから、わずか十三年後
の一九九二年に世界遺産に指定され、今は年間数
十万人が訪れる一大覿光地に変身した。
狩野敏也詩集「もう翔ぶまいぞ」
土曜美術社出版販売
時間・空間を変幻自在に行き来し、またフィクションとノンフィクション、夢と現実を往還し、自在な筆致で綴られた詩集です。読み進めると、霞の中の奥深い世界に引き込まれるような気がします。
「…虚実皮膜を縫い合わせたり、そのあわいを掻き潜ったりして、正史と矛盾しない稗史や、それにそっぽをむく異説を唱えたり、あるいはまた、人の亡霊と対話したり、動植物は無論、抽象名辞までを擬人化して語らしめたい。…」(あとがきに代えて)