忘却


その先は
いつもならば道が続いているはずが
ぷつりと
一枚の白い土塀によって
行く手を阻まれているような
そんな記憶の断絶ぶりなのである。
ペちペちと掌で
幾度その冷たい表面を叩いてみても
その先は一向 開いてはくれない。

確かにこの道であるのに
まるで違う場所のようなのだ。
だが、ここなのだ。
しかし道はないのだ

そんな、記憶の断絶ぶりなのである。



 深夜、臆病者


深夜
ベッドに横たわっていると
背中の方から
「過去の過ち」
と言う奴がやってきて

(つまりベッドマットの中からだ)

この体を
羽交い締めにする。
抱きしめられた自分は
恐ろしさのあまり硬直し
息がつげない。
枕もとで
コチコチとマーチを奏でていた
目覚まし時計の
針の音が
やがて
ドキドキと脈打つ
心臓音に重なり
脆弱なこの神経を逆なでしはじめる。
自分は
自分による叱責すら恐いので、
いつも
急がつまる寸前に
「過ちの痛手は十分に負ったさ」
と云うような釈明で
自分が納得する前に無理やり
自分を押し切る。

(つまり振り払ってやるわけだ)

するとようやく
この体は
動くように
なるのだが
そのたびに
未払いの請求書が
懐の中に
山積みになっていくような
気がしてならない。




「鉛の心臓」  羽島 貝 著 
               
                   コールサック社 刊

「…あやまちや後悔が、溜まり、よどみ、大洋となったその波間で、いつか辿り着くであろう港を夢見ながら、筏の上で口笛を吹いている遭難者のようなここちで綴りました。…」(あとがき)

 詩が動き始める場所とは、たぶんそのような場所だと思う。つまり、言葉があやまち、自らを後悔し、溜まり、よどみ、大洋となるその波間のような場所。詩は、気持ちを写すことではないし、ましてや季節や状況を写すことでもない。むしろ写すことをあきらめた時に、記憶の断絶、希望の喪失として、動き始める。
 羽島さんの詩はそのような場所で、ぺちぺちと白い土塀を叩くように、まるで違う場所のようなここで、自らを探しているようだ。道はない、だがここなのだ。そして、懐の中に山積みになっていく未払の請求書を抱えながら、なにかをあきらめきれずにいる。そして、希望の薄明かりを、もしかしたら感じ始めているのかもしれない。