時計


家の中には
乾いた肌で
柔らかな手の
老婆が
豚を煮ているだろう

島の旧家の
土間にうっすらと積もる
煤のにおい
海風が吹きぬける畳の間で
見えない家族が
団欒のときを過ごしている
聞こえない
島の訛が
瞼に驟雨となつて降り注ぐ

止まった柱時計の
文字盤もかすれて
聞こえないメトロノームが
心拍を刻んでいる

庭には
棕櫚の木が
気根を垂らしていて
生まれる前に死んだ子どもが
羽虫になって唸っている

砂糖車を見せる広場では
石臼に繋がれた水牛が
砂糖黍の束を搾っている
甘く匂う汁がひとしずく
涙のように伝って桶に落ちる
泥と牛糞にまみれて牛を引く
少年の姿が浮かんでくる
水牛はゆっくりと
砂糖に虐げられた人々の
失われた時間を巻き取っている




 あるかなきかの細い糸をたどっているかのような詩群である。まわりは薄い闇、おびただしいものの賑やかな眠りである。詩集を読み進める私たちがたどっていくのはこの細い糸。というよりも言葉はたどることによって、その先端に自ら糸を紡ぎだしていくようであり、それは「生」ということととてもよく似ている。
「生」がそれ自らの目的によって言葉を交わすのではない。逆に、言葉が薄明のただ中に、「生」を分泌する。「生」はどこから来たのか。それは海の「その水の泡のほとりで/死んでいる女の賑やかな眠り」(海風)の中で生まれた。それは「寄生虫に侵された猫の、…毛も抜けて痩せ細った猫の、腸管に訪れる虫たちの賑やかな眠り」(あとがき)の中に、私以前の原初の記憶を携えて、いまここに訪れる。だから、いまここは、あのときあの場所とは地続きであるし、いまここは、死をいっぱいにはらんでいる。
 死者の悲しい記憶の欠片たちは飛散し、遠い町の産院のせまい分娩室で、「あらたに生存しはじめる力として/孵化することができるという」(涙)。言葉が死と交配すること、それは断念ではなく、むしろ「かすかな希望を/ナズナの花のように/咲かせているということだ」(記憶受胎)。        (下前)

詩集「賑やかな眠り」
            
 宇宿 一成 著              土曜美術社出版販売 発行