生命の場と、詩と笑いと
下前幸一
…
ある詩に対するある批評が僕には気になってしかたがない。その詩は日常のふとした思いを日記調に書き記したというスタイルのもので、肩の力の抜けたリラックスできる詩であり、またそれゆえに物足りなさも感じさせるものだった。それに対する批評の要は、詩的な精神の弛緩が感じられる、もっと自覚してがんばってほしいというものだった。具体的にここで詩をとりあげることはしないけれども、僕はふと、それはちょっと違うのではないかと思った。「緊張の緩和」という笑いの要点をついた桂枝雀の言葉がある。緊張が詩であるように、緩和もまた詩でありうるのではないか。いやむしろ緊張と緩和の歩幅こそが詩の息遣いだと言えるのではないだろうか。僕がその批評に違和感を感じたのは、物足りなさを感じつつも彼の詩が好きだったこともあると思う。精神的な凝集だけが詩ではないのだ。
詩には余剰がある。ちょっと反語めいて聞こえるかもしれないけれども、詩は散文よりもある意味で余剰を抱えていて、その意味で冗長なのだ。散文的な意味においては不必要な韻、喩、リズム、繰り返し、余白、ナンセンス、ユーモア、言葉遊びというようなものが、詩においては重要な要素になっている。過不足なく意味を伝達するということから、詩はつねにはみ出しているのだ。これはどういうことなのだろうか。詩におけるこの余剰、過剰、あるいは伝達という意味においての不足、これらは詩の言葉が、なんとかして言葉の向こう側へと飛び出していこうとする意志を持っていることを表していると思う。それはどのような場所なのだろうか。残念ながら、それに対する回答などはないのだ。現代詩の意味とは、詩の言葉がなんとかしてとらえようとしているその向こう側というものをたえず探り、できうれば作り出していくという試みのことに他ならない。
言葉は、自らを遡らなくてはならない。言葉が自らの領域を超えていかなければならないのと同様に。あるいは遡ることと超えることとは同じことの違う側面なのかもしれない。言葉が自らを遡ること。自意識の世界を遡り、無意識の方へ、意識以前の芽生え成長する生命の方へ。そこには子どもの笑いが炸裂している。様々な試行を繰り返しながら自らを展開していく生命の躍動がある。言葉はそこからやってきた。あるいはそのような生命の場に言葉は着床したのだ。そして生命は言葉を手がかりにして、言葉は生命にエネルギーを与えられてともに結びあい、成長し、展開してきた。詩はそのような場に生まれた。それは揺らぐ場、展開する場、生成しあるいは消滅する場でもある。絶え間ない流動、移動、変換、結晶、そして蒸発、そのような場に詩は生まれた。何も分からない一歩を、まだ軟らかい大地に踏み出そうとする時。あらかじめの確信などはない。踏み出すということにおいて初めて確信めいたものに触れることができる。それは詩の根拠なのだ。
笑いと詩とは、その本質においてとても親しい関係にある。それは存在をくすぐり、揺さぶる。意味や秩序を相対化し、一時的にせよ、それを解体する。それは存在の界面に作動し、境界面を揺るがせ、緊張を解く。外に対する構えを解き、開け放つのだ。同意と非同意をひっくり返し、そこにより大きな肯定を導く。秩序の力に対して、脱力を置く。意識に風穴を空け、不合理との密会を促す。場に風を導く。生成の場を再生する。最初の言葉、それは笑いに他ならない。 |