◆下前幸一『砂の降る場所から』を読む
大田 修
形式は小特集だが、謹呈の挨拶文で、怒涛の様にあわただしい毎日に切れ目というか、しるしを付けておかなければならない気がしたと書かれているが、この五年間の作者の詩作、思索が深められ掘り下げられた作品が、百六十頁にぎっしりと詰め込まれ、その量と内味の重さに圧倒される。9.11の衝撃から始まり「辺境が中心に炸裂する/それは徹底的な沈黙であり、絶対的な他者/ニューヨークの朝の情景を破って、異物が露出する/絶句する光景」「オールマイティーの最強の被害者」と化すアメリカから、「ベトナム戦争において僕たちは戦争を見た.湾岸戦争では、僕たちは参戦したのだ。リアルタイムの映像を捉えるカメラがもう一つの砲であるように、僕たちの視線は否応なしにその照準を覗いていた。」との認識へのつらなり。詩の形式さえまどろこしくなって、この詩集の後半は凝縮された言葉のひしめき重なる散文特に表現は変わっていく。
「炭痘薗テロ、狂牛病プリオン、エイズ、オウム、それらは腫瘍に似ている.それは外部の敵ではない.社会自らが社会の真っ只中に生み出したものであり、それはある角度における僕たち自身なのだ」僕たちは無垢としての自らをすでに断念している存在なのだ。「ニューヨークの、カブールの、難民キャンプの、大震災の、沖縄戦の、記憶の、風景の、ガレキに帰ろう」と呼びかける作者に、焼け跡のガレキの中で中学を卒業したぼくも共感の涙を流しながら「どこからか君を呼ぶもの まなざし」を探している。 |