音楽
ひとり女の子が
教室を飛び出した
その子だけが
一心に歌っていた
音楽の時間
悪ふざけしていた男の子たちは叱られ
うなだれた少女はみんなの
叱られた
罪
を背負って音楽室を飛び出した
校門をぬけて
涼しい風の中へ
勢いよく飛び出したので
理由が
まだ追いつかない
城の石段に座って
膝の上で手を組んで少女は
ながめていた
なめらかに動き回るリスを
枝から
枝へ
飛び移るたびに
自分がもっていた
布袋
の固い結び目がゆるみ
するすると解かれていく
リスが近寄り
袋の中からいくつか
理由
を取りだし
口の中でもぐもぐさせて味見している
皮がポロポロ落ちていく
プール
子どもたちが帰ったあと
そこは静かだった
透明
に疲れていた
子どもたちは
思いっきり遊んだので水は
ぐったりしていた
澄み切った水に
中年
と呼んでよい男が入る
子どものようにはしゃいだりはしない
ゆっくりと端まで泳ぐ
くずれた平泳ぎ
疲れていたので水は
この男にまで相手をする
気が起こらず
疲れたままで休んでいた
疲れた男が泳ぐので水は
よりいっそう透明に
疲れていく
人生の疲れと水の疲れが
共鳴して
プールは壊れそうだ
詩誌「新現代詩」でご一緒させていただいている武西良和さんの「子ども・学校」に関する詩を収録した詩集。
長く小学校の教員として子どもたちと関わり、書き綴った詩集ですが、校長時代には校長室の掲示板に毎月、自作を貼りだしていたという。多くの子どもたちが武西さんの詩に反応し、あるいは感想を返してくれたという。そのように多くの詩は、その読者として直接に生徒たちを想定しているのだけれども、一読して分かるように、いい大人にも強く訴えかけてくるものがある。たぶん、武西さんの詩は、大人の中にある、あるいは大人の中にひそむ子どもの部分に強く働きかけ、揺さぶるのだろうと思う。
子供たちがよくそうするように、武西さんの詩では、擬人化が多用されている。動物でも、植物でも、あるいは周りのすべては自分と同じ命をもち、自分と同じように喜び、悲しみ、あるいは物事を憂えている。そのような共感の働きが詩の根底にあって、私たちの感受性の手を引いてくれる。私の中の子どもが呼び覚まされるのだと思う。さらに詩人として、武西さんはもう一歩、歩を進める。それは観念としての言葉を、また擬人化して見せるのだ。そのようにして、硬直した観念としての言葉に命を吹き込み、新たな言葉の世界を切り開く。
詩の可能性の扉を今開きつつあるところ。とても魅力的な世界を指し示している詩集だと思う。