
父子像
ふとしのびよる気配に
きまって真夜中に目を覚ます
小さな背中を僕の背にすりよせてくるその気配は
いつも柔らかで、懐かしい草のにおいがしている
少しの隙間も作らないようにと
小さな背中はぴったり
僕にその熱い体温を移していく
この子が生まれて
もう一年が過ぎただろうか
今朝も二人の背中は
生き物の熱で火照っている
まだ、言葉さえままならないのに
いとけない仕草で
一生懸命に自分の存在を
知らせようとにじりよる気配
生きることの喜びと悲しみを縒(よ)りながら
しっかりと結び目をこしらえて
いのちの螺旋を繋げていく
その愉悦と恐怖が、父の胸に迫る
いつしか、同じように
この子の背中にも気配がしのびより
次の結び目ができるとき
いったい、どんな気持ちで
僕のことを思い出してくれるだろう
寝苦しい夜は、まだまだつづき
二人の寝息は
いつも寝室の窓を結露させる
それはまるで、絶対にほどけないよう
二人の結び目を湿らせるみたいに
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詩集「点描画」 木島章 著
コールサック社 発行
この詩集の一つの中心ともいえる詩「父子像」。この背中の感覚、背中からじんわりと伝わってくる温かみ、そしてそれに誘発されるかのように僕の中に染み出し、次第に僕の全体に伝わっていく感情。僕はとてもよく分かる。今、小学5年生の息子がまだ小さい頃、添い寝をする晩のふとんの中。まだ言葉のない息子と、その温かみに触れて、次第に言葉を失っていく僕との、小さな世界。分かる。
そして、結びめとは何だろうかと思う。子どもは父との触れ合いの中で、いのちの結び目をこしらえて、ひとつひとつと自分自身を紡いでいく。その結び目は、父と子とを結び、そのことを通じて、周りのすべてとの結び目として、いのちの螺旋を繋げていく。
いのちは結び目をこしらえることなのだろうか。結び目を繋げる螺旋をたどっていくことが、生きるということなのだろうか。
木島さんは詩集の題名を「点描画」とされた。詩集の中の多くの詩は、日常生活の点景を描いたものだけれども、言葉のひとつひとつの点によって描かれるのは日常生活の中に息づくいのちの営みのようなものかもしれない。