ことばは透明な雫になって
不意に絡めとられる命の焔(ほむら)
こころの揺らぎ
人々の周囲で峙つ闇
しばしば
手に余るもののために
人は
自らの心の響きや問いに
応えられない
こともあるのだ
激しく打ちのめされ
全身に反響している
心のことばを
声にできず
心のことばに
応えられず
そして
物語ることをやめ
すべてを
人生論に
そして
運命論に
還元する安堵感で
固まりつつある私たちの
哀歌の軽さ
けれど
ことばはたえまなく透明な雫になって
人々それぞれの心の底の砌(みぎり)に落ち
はじけている
はじけている
そしてそこから
すこしずつ
すこしずつ
さまざまな物語が
回復していく
ふたたび
みたび
清水博司詩集
「言葉は透明な雫になって」
潮流出版社刊
清水博司詩集「ことばは透明な雫になって」
これは決して悪い意味で言うのではないけれど、「上澄み」という言葉が僕の頭に浮かんできました。この世のあらゆること、生活のすべて、頭の中の思いのすべて。すべてをひっくるめてかき回し、そして少しずつ沈殿していくのを待っている。そのようにして、ようやく現れる透明な上澄み。それは「本質」ではないし、「真実」というものでもないかもしれない。「実体」からは遠く、しかし大切な何物かであることは確かだ。そしてそれはおそらく詩によってしか捉えられないものでもある。その「上澄み」の核心がなにかと言えば、たぶんそれが言葉なのでしょう。私たちは「上澄み」の雫を首筋に受けている。降り始めた「上澄み」にずぶ濡れになっている。「上澄み」の海をあがき、そして泳いでいる。たどり着いた砂浜で、透明な雫としての言葉をしたたらせているのかもしれません。 (下前)