新日本文学の時からお世話になってきた黒羽さんの新しい詩集です。
すべては「移ろい」のなかにあります。人も、物も、時も、世も。黒羽さんの詩は「移ろい」のなかをさまよっていくもののようです。「移ろい」(旅)は空間から時間(歴史)へと深化し、なにか膨大なものにまぎれてしまう、という印象です。平面的な現在を生きる僕などは、いつも圧倒されて、立ちすくんでしまいます。
(下前)
移ろい
落葉喬木ケヤキの
澄みわたる蒼穹に突き刺さる無数の小骨にも
気がつけば淡黄緑色若葉の大傘小傘
過不足無き天の巡りを仰ぎ見ながら
甦える春を称える蛙の声の
歓喜の合唱耳朶打つ記憶
年毎に弥増して二十年
蟾蜍(ひきがえる)庭石の陰から消えし日とほぼ異ならず
小綬鶏(こじゅけい) 鵯(ひよどり) 縞蛇(しまへび) 蝮(まむし) 狸 雨蛙
百足(むかで) 馬陸(やすで) 揺蛟(ゆすりか) 守宮(やもり) 蜥蜴(とかげ) 家鼠 土竜(もぐら)
絶滅のニュース無きも姿見せぬ日いたずらに長く
その行方疑い ここ東小磯に「沈黙の春」訪れぬこと祈るのみ
代官山の裾小高く突き出したところ光気山と呼ばれ
二千年前は確実に相模灘の波打ち寄せる岬
対岸の中尾山とは巨大な蟹の鋏にも似て対を為し
湾入部をアワタラ山の麓まで白波駈け上りしものを
その入江の奥の名ヨーサダと今に残る半島より渡来の者の命名と
ただちに知れる証(あかし)に蟹の鋏の中尾代官両山の横っ腹に
穿たれた横穴古墳数知れず
時流れ湾入の谷戸 湿原となり 江戸期に三宅善兵衛ヨーサダの地に池を作り
良田拓いて幕府に賞され 二宮尊徳これに倣って酒匂川沿岸の地を治める
この字清水の谷戸を流れる澄んだ水に 日高 蛍 蜻蛉棲みつきしものを
清流に死の蓋かぶせて暗渠に変えた小径を
鴫立澤の草庵の下の岩組みに沿い よろきの浜に降りる
薄茶色の細波揺れる寒い日の相模灘
しばらく見ぬ間に青緑色の白波うねる春の海に変わり
陽射し強まり影濃く短かくなる中を
半世紀に近い昔よろきの浜に白人少女を救って表彰され新聞にも書かれた少年一人
親戚筋の者なれど六十路半ばに倒れ独身なれば縁者集いて哀しみの「送り」
四十九日の読経の声 雨中の墓石の前の大傘の中に籠りしままなるに
その母 数年に及ぶ母子の会話不如意のまま
九十一歳でこの世を去る
永い眠りに就くとは死の謂なれど
まさに眼を閉じたまま横たわるきれいな老女眼の当りにし
読経の声 線香の煙 果ては棺に入れる別れの花の中で
永遠に消えやらぬ死の冷たさ 額から掌に伝えれば
「死ぬとは眠ること」なる名台詞身に沁みて
帰宅すれば 旧制成田中学同級生死去の電話
東京大空襲生き延びた疎開転入生のわが身にその死を重ね
三つの死の連なりの中 海辺の陽射しの強さ影の渡さ弥増す果てに死の近づきを見る
黒羽英二詩集 「移ろい」
2008年 書肆 青樹社