苦笑い


ランドセルだけが
見知らぬ人に届けられ
たか子は まだ 戻らない
片道八分余りの通学路

犬が二、三匹
前になり 後になり
護衛よろしく たか子のお帰り

お花に声をかけられたのか
石に抱っこをせがまれたのか
鶏とおしゃべり 夢中になったのか

それぞれの手に 石と花
お口からこぼれる鶏の鳴き声

日なたの匂いのする娘に
叱るに叱れず 苦笑い




神と鍛冶屋


陽の沈む頃
大海原の片隅で
焼きついた太陽の
“ジユン”と焼き入れの
音がする

冬の夜空に
君臨するにふさわしい
見事に鍛えぬかれた
鋼(はがね)の月

殺気だつ程の光をおび
燦然と輝くそれは
父の作品に違いない
神も腕の良い
鍛冶屋を召され
満悦していることだろう
ただし
父は唯物論者だった




 詩集「ゆりこゆりこと呼ぶのよね」をありがとうございました。 比較的短く、またやさしい言葉で綴られた詩で、一気に読み通すことができます。しかし読み通した後にゆっくりと訪れるものがあります。それはある体温を伴った暮らしであり、その移りゆきであり、またその記憶でもあります。著者のその思いをともに体験することによって、私たちの中に確実に癒されていくものがあります。
  著者の詩は、良薬としての詩なのです。つらい思い出やきつい現実も、それを言葉にし、詩という作品にすることによって、なんとかやってきた、そのような営みとして著者の詩はあり、詩作とは良薬を自ら紡ぎだす営みに他ならないように思われます。そういう意味で詩作は著者にとって手放すことのできない営みだと思います。
 しかしまた、本当は「良薬としての詩」は問題なのではないのかもしれません。深い意味で、良薬であることに、詩の意味はないのかもしれません。言葉のそういうありようを内側から食い破っていく、あるいはその場所を滲み出していくとき、そこに「詩」はもう一つの可能性を見せるのかもしれません。

詩集「ゆりこゆりこと呼ぶのよね」
             大場百合子 著


            詩人会議出版 刊