看板
明かりを落とされた地下の駐車場に
赤いバイクが並んでいる
エンジンをかける音もない夜は
静まりかえっている
この中の一台は
さっき
修理から帰ってきたやつだ
それに乗っていた友人は
ベッドの上にいる
トラックに積まれ
波のように押し寄せてきた
「ブツ」を
群がって
群がって小分けにし
太い片足のスタンドが
軋むぐらいに積んで
次々にまたがっては
エンジンをかける
ハンドルをしっかり持って
アクセルをふかし
スロープを上がる
「事故ゼロ」の看板をくぐり
車が交錯する路上へ
渋滞しているときは編むようにして
流れているときは負けないようにして
アクセルと
ブレーキと
スタンドと
何百回繰り返し
荷台が空になったら
帰巣する鳥になって
看板をくぐっていく
言葉が、できるだけ自分であろうとするとき、その言葉は、たぶん暮らしの言葉だ。日々の営みに立ち、そのままそこに踏みとどまろうとする意志。それは意志しない意思のようなもの。いたずらに屈折せず、自らをかき乱さず、わめかず、告発せず、そしてできるだけ自分であろうとする。暮らしそのものと平行し、暮らしとのわずかなズレやきしみや痛みに耳を澄まし、再び暮らしへと投げかけられる言葉。
詩集「ゆうびんや」はそのような、暮らしのリズムや歩く足音に寄り添った詩集だ。毎日毎日繰り返されるゆうびんやの日常が描かれている。雨の日も暑い日も立つ無骨なポストのように、その営みは変わりなく続けられている。ゆうびんやとしての暮らしは左手から右手へ、そして路地から路地へ、荷台いっぱいの郵便物をひとつひとつさばいていく、そのような労働としての暮らしだ。労働としての暮らしの毎日に、わずかに危機の影が兆す。変わらない営みの中に、ふと物思いが宿る。物思いが、詩として定着される。詩のうしろにはゆうびんやの労働のリズムやスピードのようなものが確実に流れている。詩集後半の詩は労働を離れた暮らしを背景にした作品で、物思いが流れる土台としての暮らしは、もうすこしゆったりしている。言葉を発する主体としての作者もまた、リラックスし、ゆっくりとしている。
作者は両方の暮らしを生きている。その二つの場において自らの物思いに分けいり、詩というものを探している。あるいはゆうびんやの労働と生活という二つの段差を生きるために、作者にとって詩は必要なものだったのかもしれない。
(下前幸一)