心抱きしめて
四日市高校通信制コンサート後に創った歌
南修治
わかっているよ 君のこと
どうして涙が出るのか
こらえきれない、数え切れない
悲しみ背負ってきたんだから
いいよ人間って弱いものさ
強がらなくてもいいさ
誰だってあるよ小さなことに
心ふるわせてしまうこと
どんなに辛かったのかっていうことを
言葉に出さなくてもいいよ
ほおをつたう一筋の
涙がすべてを語っているから
わかっているよ 君のこと
うつむいたままのそのわけを
握りしめたこぶしの中に
押さえきれない思いが
ゆるせない ゆるしたくない
あの日のこと あいつのことを
誰に話せるわけでなく
忘れられるわけでなく
どんなに辛かったのかっていうことを
言葉に出さなくてもいいよ
くちびるかんで握りしめた
こぶしがすべてを語っているから
わかっているよ 君のこと
さみしさにつつまれているんだね
会いたくても会えない人が
まぶたの中にいるのかな
別れのたびに悲しみを
心に拾い集めてきたんだね
やり直したい、でも、やり直せない
もどかしさの中にいるんだね
どんなに辛かったのかっていうことを
言葉に出さなくてもいいよ
肩震わせてうつむいた
背中がすべてを語っているから
どんなに辛かったのかっていうことを
言葉に出さなくてもいいよ
ひとりぼっちがさみしいから
心をそっと抱きしめて
*習慣(週刊)あんじゃない 通算No652 2000-2-28
毎月曜、南修治刊 岐阜県恵那市三郷町佐々良木深瀬
〒振替00820-4-53767自由巣 葉書年\4000- Email無料
◎120%の人生を生き抜いた
森本さんに対して神様はどうしてこんなにも試練を与えるのだろうかと思うこともあった。
でも、奥さんが彼のことを120%生き抜いた人生でした、と語ったのを聞いて、僕は森本さん
の生涯を「良い人生だった」と確信を持って伝えられる。
森本さんは厳しい生活条件の中で高校の教員になることを夢み、何度もチャレンジし、や
っと採用試験に合格した。しかし、採用時の健康診断で、なんと咽頭ガンが発見されたのだ。
採用はだめになり、手術をし、闘病生活が始まっていく。子供がいて、仕事もなく、3年間
の闘病はどんなに辛かっただろう。でも彼はあきらめなかった。三年後にもう一度採用試験
に合格し、教員としてのスタートを切るのである。しかし、既にガン治療の後遺症が進行し
ていた。放射線の影響もあり、左半身がマヒし、それと共に教員の生命である発声が困難に
なり始めたのである。それでも教壇に立つ機会が少なくていい通信制の高校の教員として仕
事を続けていく。
先日、女房が、森本さんとは全く関係ない会合で、たまたま森本さんの教え子に出会った。
困難な生い立ちの中で夢を抱きながら語る女性が、何気なしに素晴らしい教員として写真を
女房に見せたのが森本さんだった。
通信制の高校に通っている生徒さんはすべて人生に大きなドラマを背負っている人たちば
かりだ。不登校経験、非行経験、病気の人や家庭的な環境に恵まれなかった人が、普通の高
校に通えない条件を抱えて通う学校なのだ。それだけに心に寄り添うことがどれだけ必要だ
ろうか。
森本さんは、まさに自分の人生の痛みを武器にしたと言える。点数ではなく、出来不出来
ではなく、人間が夢を追い続け、挑戦していくことのすばらしさを自ら描き続けたのである。
森本さんがいることだけで救われた生徒が何人もいるという。痛みを知っているだけに、痛
んでいる人を理解し、寄り添って歩むことができたのである。
最後はふらふらになりながらのスクーリングの授業だったそうだ。出ない声を振り絞り、
不自由な体を引きずって、それでもまわりの教員が教壇に立つ彼を止められなかったという
ではないか。
僕は今でも森本さんが企画した四日市高校通信制でのコンサートを忘れることができない。
生徒さんの多くが涙を流しながら自分の心の痛みと僕の歌を重ね合わせながら聴いていた。
そのかたわらで、にこにこ笑いながら生徒さんを見つめている森本さんの姿があった。一番
困難な状況にあるのは森本さん自身なのに、困難な中にあっても笑顔を絶やさなかった。彼
がいることだけで、「何があっても大丈夫」という思いを多くの生徒さんが受け取ったのだ。
人は何のために困難や試練を与えられるのだろうか。困難や試練に向き合うことなくおち
ていく人生もある。しかし、困難や試練を武器にして生き抜いている姿を通して反対に多く
の人に感動と希望を与えていく人生もある。森本さんの人生を振り返るならば明らかである。
10日前、彼は10年間の通信制の教員生活を終えて天国に旅立った。短い人生だったの
かもしれない。やり残したこともあったのかもしれない。何故と思えることの連続だったに
違いない。でも、はっきり言えることは、僕や多くの生徒さんたちの心の中に、120%生
き抜いた森本さんが、今、永遠の生命をいただいて生き続けていることである。