詩集「水の遠景」 出海溪也 著
白昼の月
診察台に寝かされ
硫酸アトロピンの点滴を受けた。
瞳孔は最大限に拡大
私の視界から
すべての景物が喪われていった、
若かりしころの
わたし
無明
の白い闇
の中に
無遠慮に侵入してくる〈影〉たち――
空からの絶えまない無差別攻撃。
積雲の小倉から晴天の長崎へ
運命を左右した一台の飛行機が
億万の心にケロイドを焼きつけ。
酷寒にさらされた兵士たちは洗脳され、
おびただしい天皇信仰者にかけられたキーロックは
アメリカン・デモクラシーで解錠されたか
新しい信仰がおき
そして消えた。
一糸乱れぬ絢爛たるマスゲームの
社会主義国があり
また宗教集団があった。
半世紀まえの亡霊が
ふたたび悪夢を呼び醒ます
殺生を禁じ、ゴキブリと共存
霊峰を背景にした
神殿と祭典のない教団が
日本の中に興りつつあった。
禁欲と好色
破壊と救済
金剛乗と殺戮
の果て
の
凶乱!
*
曼荼羅華の葉から抽出した
アルカロイドの
白色絹糸の
針状結晶体の
アトロビン。
――四十数年まえ
仮性近視の治療に使ったその薬効はすでに切れ……
末世もなく
末法もなく
終末もなく
白昼の月のような
残像だけが
網膜にこびりついていた
スケルトンあるいはICUの幻視者
痛みもなく
恐怖もなく
悩みもなく
ICUで眠りつづけるおまえ
痛みもない
恐怖もない
悩みもない
生命の実感を喪ったおまえ
来し方
万年の記憶が血のなかによみがえり
行く方
千年の未然を幻視する
おまえの
凄絶な夢
電子音が交錯し
近代化の粋を尽くした機器にかこまれた白い部屋
異物のない
無菌
の
空間
に
ひしめく
透白の医療従事者
――しだいに透けていくおまえ
いっさいの無駄を排除
合理性を求め
人工化を極め
透明を憧憬する
それは――
無痛文明の行きつく・と・こ・ろ
心室細動不整脈の突発で心の臓が止まり
おまえの頭蓋の中で
脳幹が壊れた
瞳孔は極限にひらき
鋭角をなす心電図の山がたラインが鈍角化
下がりつづけた心拍数は零に近づき……
原体験も
相像力も
暗闇さえも奪われ
おまえの幻視力は霧消する
*詩集「水の遠景」 発行:新・現代詩の会 横浜市港南区港南台5-10-1
*視力に関する詩、二編。視力、視界というのは生物学的な現象であるとともに、
社会的な現象でもある。社会的、歴史的な視力というものがある。
敗戦と焼け跡を目にした人たちの視力。それから現在までの歩みは、視力を喪失する歩みだったのかもしれない。失われた視界は少しずつ透明になっていく。
極限的に透明の視界。透明、客観、合理化された視力、それはある種の敗北だと、僕は思う。