引っ越しに関して
村上 悦代
引っ越しに 何を持ってきた
誰かのツメ マニキュアをしない私の家で何時 誰が爪を切ったか 思いだせ
ない
男の髪の毛 考えていると面白くないことを思い出した
柄のとれたコップ 赤いコップはこれだけ 皿でも茶碗でも一つきりの赤い器を そ
ろえよう
辞書 別れた夫がくれたもの 実用性に富んでいるので手放せない 時
時 感謝するが 感傷はかけらもない
指輪 質屋で買ってくれた結婚指輪 すぐに金属があたる部分の皮膚が
くずれて暗示的だなと感心して捨てずにおいたもの 妻であるこ
とを捨ててから何年もなるのに ボタン入れのなかに紛れこんで
いたもの ふかく考えることはやめにして 百個ちかいボタンの
中に今までどおり押し込んだ
時計数個 進んでいたり遅れていたり 正確なのはテレビの時間表示だけ
表示されてない場合のために すべての時計の中間で動く習慣を
すべての時計が一度に止まることは少ない
寂しさ 怒り ひとりで居てもふたりでも 寂しさと怒りは個人のもの 上手に
ひとりで付きあう方法 年期が入ってた大人っぽさ つまり俗物
性
数枚の絵 友人と娘が寂しさと怒りを混入して描いた絵 私の健康状態のバ
ロメーターそして人のその寂しさや怒りから逸脱する決めて
本 そこには物語があるから 私の物語を別世界に置き換えして覗き
見る時間
父母と祖母の形見 形あるものはないけれど 私が居るという実感 思い出からはほ
ど遠い血の流れ 鼓動
仕事 変化は少ないけれど 私が変わるための ジャンプ力 金儲けだ
けでは済まない 浪費癖
引っ越しで 何を捨ててきた
宗教 捨てても捨てても付き纏う魄のもの 先祖の業を繰り返し記憶さ
せようとするもの 母と私が受け継いだ女性姓そして娘も 死ぬ
まで続く肉親との関わり 嫌悪で始まったなら嫌悪で終わらせた
いと言う呪文等のいっさいを 経とは永遠に謎であると言う恐れ
本 物語が色褪せたより熱中度が稀薄になったもの そして私がそこ
にいた記憶が恥ずかしくなってきている本 古本屋が値段をつけ
られない本も
ソファ 誰も座らないで 服おきになってしまったもの 革は虫避けにな
るという勘違い
隣家の男 咳払い 夜中にトイレに行くと同じように水洗便所の音をさせた
行為 覗き癖 郵便物の切手部分の破損 電話の殊更大きい話声
私が女であることを無視した挙動
隣家の七匹の猫の鳴き声 蚤
八年間の暮らし 天井からきりなく降った挨 蜘蛛の巣 隙間風いがいの風はのぞ
めない日々
ポスト 時々 郵便配達人の足音を聞いてすごした時間
引っ越し案内が戻ってきた人々
引っ越して心配なこと
失神しても誰も気付かないこと
年齢から計算すると 三年に一回割合で引っ越しをしているので この部屋も家賃が払え
なくなったら出ていかなければならない仮の住まいだということ
私が死んだ場所が我が家になるだろうと言う事実
*同人誌「CUSCUS」でしばらくご一緒させていただいた村上悦代さんの個人紙
「いいこと一つもない初春でしたが 新しい住まいにも少しずつ慣れてきて 家賃がいつまで払えるかなど 考えないことにして仮の住まいを楽しんでいます 私が死ぬ場所が我が家になり そこから消滅する時まで 後 何回 引っ越しをするだろうかと たまに考えながら」