詩集「いきつもどりつ」   清水博司 著

  海峡

幾度か 海峡をわたったことがある 海峡の背鰭を着込んでいるのはぼくのようであり ぼくのようではなかった 「あれはなあに」 と少年が父らしい男に尋ねている 「あれはいか釣り船」 と男が答えた 〈いか釣り船〉 ぼくの前で 星々と見分けが付かずに流れる光の群れが 瞬いている 事実はためらいながら錯覚をもたらし 錯覚はかたくなに事実にしたてあげられ 海峡をわたる 老人たちには エゾと「内地」を結ぶ道だった 海峡を挟んでつまりそこは「外地」 ぼくのなかの何かが剥奪されて しかしぼくはもっと剥奪し 野原をただ同然で手に入れた人の血を引く 広い畑を馬車に乗る少年の日 ぼくは 夕日から吹いてくる風に だまって身を任せていた 海峡に吹く風がある 閉ざされる海峡がぼくなのだ ぼくはうねりながら流れる ぼくは魚を食い 魚たちは銀色に輝きながら ぼくの背鰭を食い いつの日にか魚たちはぼくを解体する 海峡をわたったことがある

 かまいたち

黄昏にやってきためまい 鮫肌のからっぽな胃のなかで 酸性の不透明な液体は 遠い記憶を溶かしている 激しい真空が駆け抜け 裁断した その切れ間から覗いているもうひとつの黄昏の層 ぼくらは固唾を飲んで〈七時のニュース〉に 映し出される「友情」を見ている カメラを意識する笑いだけを学びながら 微かな痛みも 僅かなためらいさえも 見えない 強いられた忘却 あるいは正当化 あるいは歪曲 あるいは矮小化 あるいは詐偽 〈首のないファシズム〉 かまいたちの ぱっくりあけた傷ロから 覗いているのは いまも昔も 自らを裁けないぼくらの胃だ 冷たい汗を吹き出しながら ぼくらの胃は世界のそしてこのクニの あやしい胃へ飲み込まれていく 画像の外側で 殺掠された死者が 黒く鋭く立ちあがり ひとりひとり 名を告げ 語り始める

*発行 潮流出版社 東京都中野区鷺宮2-10-3
*著者の詩集「地球に吹いた風に」に感動して「詩のちらし」で紹介したのは、もう10年以上も前のことになります。
 その時にも少し感じたのですが、新しいこの詩集を読んで、『感傷』という言葉を思いました。 自ら自身の内に、批評をしっかりとはらんで、決して自家中毒したり、ズルズルと流れていかない良質の感傷です。 自らへの批評のゆえに、透明感とある種の硬質性をたたえた感傷であり、それが言葉の痛切さというものをきわだたせているようです。

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