詩集「時間が流れ込む場所」     正岡洋夫 著

    夏の波切

波切へ 海を見に出かけた 時間が流れ込むという場所で 私たちは日がな石段を昇り降りしていた 生命の数だけ海はうつくしい 険しい斜面に並んだ家々 先端には白い灯台 壁を伝って断崖を歩いた 波切で私は少しずつ狂ってゆく 姉は静かに笑ったままだ 夕闇が近づいてきて 私たちの後ろに影が長く延びている 切り取った脳と残された記憶 灯台はぐるぐると灯を回転させ 空があんなに赤い色を滲ませている 波が一瞬写し出されて消えた 思い出は前後なく現れる ああ波切はいい 家族で並んで駅まで歩く 子どもは何人だったかというような 病室のバラは何本だったかというような やわらかい時間が流れ込んできて 私たちの前で立ち止まる 駅で座って集合写真を撮った なつかしい夢の瞬間 姉は死んだ父が立っていると言う 老いた母はせめて次の春までと言う それはきっと贅沢な願いではない 波切で私は少しずつ狂ってゆく 前方に見えるのは断崖 その下には暗く寄せてくる海 最後の夏に 時間が無秩序に流れ込む場所へ 私たちは歩いていた

  河

錆びた線路のそばには 尽きない葦の原があって 河は深く流れつづけていた およがないカイツブリや 胸の弱いフナのいるその流れに ぼくは身体をひたしてみた 微かに透きとおった光は 貯木場へつづく茶色い堰を通って 足元から離れていった あれから 祈るような日々を過ごしたのだった 雲は河面を覆うほど低く 垂れこめていた やわらかなその影を映して 河はぼくの知らない町の方へと去っていった 岸に繋がれた木のうえで 遠くから来た鳥が休んでいることがあった しかしそれも空に溶けてしまって いまは鳥のかたちをした 静かな木しか見えない 目を閉じても 深く広く流れつづけているのだった ケヤキの葉のなかを 途切れた線路まで歩いた ぼくのうしろで 青い手袋の男たちはまだ 大きなチェーンソーを操っていた 空がとても重い びょうびょうと鳴る風は ぼくのいない河にむかって はげしく吹き過ぎていった

*詩集「時間が流れ込む場所」   正岡洋夫 著
  発行 編集工房ノア 大阪市北区中津3‐17‐5

*波切あるいは時間が流れ込む場所、というのは始まりの場所でありまた、あらゆる情景が
 そこへと至る終着あるいはブラックホールでもあるのかもしれません。そこでは記憶と現
 在が接触して化合する。そして情景はねじれつつ発熱する。そこではまた時間が折りたた
 まれ情景は時間を貫通して重層化する。

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