詩集『かみさんと階段』 井之川巨 著

セピア色の街

 初日

ビルとビルの角にごつんごつん と頭をぶつけながら昇ってくる 初日が見えた 何かいい事がありそうな朝

 猛暑

気象庁の長期予報では この夏は冷夏と言っていたが 連日三十度を超える暑さだ 日本列島が焼かれた煎餅のように 反り返っている 高松では トラックが雨の配達をはじめた

 螺旋階段

その街の歩道橋の螺旋階段を上るとき 僕の心はいつもちくりと痛む 彼女は言った ― 今度こそ生みたいの あれから何年経っただろう 彼女がほかの男との間に子供を生んだ と聞いた、しかも二人まで 螺旋階段を下りるとき あの日と同じように春の嵐が 僕の肩に冷たい花を叩きつける

 ビールスの夏

太陽は電子レンジのように照りつけた 頭皮から汗がわき 額にしたたり 背を流れ落ちた くる日もくる日も太陽は照り 日干しになった気分のある晩 腹痛が僕を襲った 十余年まえ胃潰瘍を摘出し 三分の一だけ残った胃壁を よっぴて 暴走族のように激痛が走りまわった 不眠の朝、クリニックをたずねると ドクターは臍の上に聴診器をあて ビールスの仕業ですね と大きな注射をにゅるにゅる打った 便所へ駆け込むと 液状のものが勢いよく噴出 黒いビールスの死骸が わが悪行の記憶のように累々と 白い便器にあふれ 僕のこの夏は終わった

かみさんと階段

 階段

東急池上線大崎広小路駅の階段は ひよどり越のように急峻だ 改札口を入ると プラットホームへ直結する階段が 目の前に壁のように立ち塞がっている 朝夕のラッシュアワーともなれば 義経の軍団のような若武者たちが 先陣を争ってどっと駆け下り駆け上る 女子供たちは電車が行き過ぎ 汗くさい軍団を見送ってからようやく 階段へ第一歩を踏み込むことができる ある夕べ、仕事帰りのかみさんが 階段を数歩下りかかったとき つぎの電車が怒濤の軍団を吐き出した 身を寄せるひまとてなく 両手にぶらさげた買物袋のひとつに 若武者の鎧の袖が軽く触れると かみさんは足を踏みはずし 急坂を逆落としになってころげ落ちた レタス、トマト、卵、鰯、ペットボトルなどと共に たたきつけられ、ひしゃげたかみさんの足は 救急病院で七針縫っても昔日の元気は戻らず きょうも階段の前でじっと立ちすくんでいる

*詩誌「騒」や「原詩人」で活躍されている井之川さんの五年ぶりの詩集です。
 井之川さんといえば、左翼的で政治的で闘争的で、というイメージがあるのですが、今回の詩集は、より生活の実像に近く、病気や
老いなど、ある意味では景気の悪い詩群です。しかし一読して、僕は生活の重苦しさというものはあまり感じなくて、「境地」とか「
自在」とかいう言葉を連想しました。あっ!何かあるな、と感じるのですが、くっきりとは分からなくて、もしかしたらこういう言葉
に近いのではないかという感じです。
 発行所 青娥書房 東京都千代田区九段南3−3−12

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