恋は忘れて 村上悦代

倦怠は蜘蛛の糸 それぞれが 紫煙を指先で弄びながら 眠気による涙を滲ませて 相手を伺っているが 虚しさが 先立ちをして また それぞれが 紫煙を部屋中に撒き散らしながらも 出て行くことはない 惰性はドライフラワー 記憶をちらちら 思い起こしながら ありすぎる時間に制御された心の裏には鍵をかけている 一日中 薄暗い片隅で 窓の中に降る雪をみている 灯りのような窓が 闇に変わるまで 諦めは時計の振り子 そうすれば安全だと囁くのが本能だとして 身を引く 腰は大地と平行の高さにあり 足の裏には泥を少々 指は唇を忘れて 日が暮れてからは 場所を変えない電柱に似た影をおとして 後悔は狐の朝 分かれたばかりの人の顔ばかりがなぜ現れるのかわからないから 打ち消しの高笑いをする 狐につままれたような別れは 打ち消しても打ち消しても 現れて 苦しい人は 後悔することの嫌らしさを 誰彼なく伝えておく 陶酔は水際の花 気持ちを外に示さないで 血の気が引く瞬間を保とうとして 独りになる 幽玄の世界が開かれる時を待ちながら 失神する 乙女よ花は昨日と同じ白だったかと 問う声を聞きながら 献身は根のある食物 毎日のように喜びを探す ある日 引き出しの中にあの人の手袋があり 片方だけでは困るから と無くした片方の手袋を捜しに行き 帰ってこない

*村上さんというと、言葉の粘着性が強い詩人だという印象があります。言葉が言葉を次々と引き寄せ、 ある種の粘着力によってつながっていく。その粘着力の中身についてはおいておくとして、ともかく、 そのような言葉の連なりに身をゆだねるのは、ある種の快感でもある。
 今回は各一行目に喩の断定の一喝を入れることによって、粘着を断ち切り、強いリズムを出しています。
 本当は、こういうやり方は、たぶん詩としてはありきたりなのでしょうが、そう思わせないのは、 言葉の持つ粘着力の質、中身によるのだと思います。

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