詩集「水の居場所」    永井章子著

向こう側に

                 一人で座っていますと床の下で水の生まれる音が聞こえてきます 暗闇を両手で押すような自分の重さだけを感じるそんな音なのです ずっと前から何か気配があったのですが それが音なのだと確信す るようになったのはそんなに昔ではありません そしてそれが水の 音だとわかったのは割合新しいことです 少し古くなった台所の床 板の節穴がとれてしまって そこからかすかに水のにおいがするで はありませんか 高台にある家ですのでとても不思議に思って節穴 のまわりを少しはずしたのです すると薄緑色の水が床板のすぐ近 くまであるではありませんか それを見た時すぐにいつも気になっ ていた頭の中の音がこれなんだと気付いたのです 昔祖母が「水の 生まれる場所の向こう側に あるんだよ」と言っていたのを思いだ したからです 家人には黙っていることにしました はずした板を 元どうりにして節穴もつめものをして もしかしたらどんどん増え て床の上まであがってくるのではないかと心配でしたがそれ以上は 増えませんでした むしろ少なくなっている日もあるぐらいです おそらくどこかで水が生まれ変わっているのでしょう でも向こう 側に何があるんでしょう たしかな それは何なんでしょう 自分 の水が見つかったのですから向こう側さえ見つければ何もかもわか るはずです でも自分でこの水の中に入って探す勇気がありません ので考えた末泳ぐものを放してみることにしました もしかしたら 出口を教えてくれるかもしれません でも放した三匹の金魚は何日 かは赤い影を水面近くにみせていたのですが エサをやろうと思っ た時から見えなくなってそれっきりです もしかしたら向こう側に 行ってしまったのでしょう 好きな人の事など考えていてごく稀に 水のことを忘れていることがあります あわてて床下をのぞきます と水がすっかりひいて いいえ水の形跡など何もなく乾いた土が見 える時があるのですが そんな時恐くて叫びだしたくなるのを必死 でがまんをして目をこらしていますと いつの間にか薄緑色の水が 音もなく満ちていてホッと一息ついたことが何度かありました し かしこんなに土台が水につかっていてはいつか家が壊れてしまうか もしれません 知っていて黙っているのはやはりルール違反でしょ う でも手を下したことはこっそり金魚を水の中に放したことだけ ですので 言わなければと思いつつ長い間の気がかりがほんの少し わかりそうになった今を乱されたくないのです このことを知った 時の家人の態度がとても不安で 頭の中の音を取りあげられてしま う気がしてならないからです とにかく早く向こう側の出口を い え入り口を見つける手立てを考えようと思います

*詩集「水の居場所」 発行 白地社 京都市左京区二条通り川端東入る 新先斗町133サンシャイン鴨川501
 生活の場面において「水」はとりたててそれについて意識することもないほどアタリマエの存在なのですが、この詩では、ある始源とも言うべき場所を暗示する、異物としてあらわれています 日常の床下に流れる異物としての水の感触が、ずるりと意識に触れてくるような気がします。

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