盲流の陸(西安)

 深夜の冷気は微かに音もなく流れていた。しかしそれは凍えると いうほどの寒さを呼ぶことはなく、むしろ人々それぞれの休息をひ っそりと押し包み、人々それぞれがそれぞれの休息の内にゆっくり と憩えるようにと、人々の間で交わされる営みを音もなく断ち切る かのようなのだ。人々の間で交わされる営み。眠りは営みを断ち切 り、そして夜はひっそりと一人、一人の眠りを押し包む。一人、一 人。しかしそれは夜が人を孤独という内省へといざなうということ ではない。むしろ眠りにおいて人は内省を、つまり自分自身をしり ぞくのだ。そのときそこに、つまり断ち切られた営みという間の断 面、しりぞいた内省の亡骸として露呈するのは、例えば動物性とし てのヒトであり、また体温を持つ物体としてのヒトであり、いまこ の瞬間に、不随意運動としての呼吸や心拍そのものとしてさらけ出 される身体的な生理としてのヒトであり、いわば人間的な歴史から も世界からも退いた有象無象なのだ。アナキズムという言葉さえも ここではすでに内省的に過ぎる。  僕は陸のような西安(シーアン)駅前広場にいる。午前三時。す でに活動を止めてしまった駅舎には乏しい明かり。そして薄暗い広 場に陸続と横たわる、僕にとっては得体のしれないと言うほかはな い人々。その数は二、三百人にもなるだろうか。おそらくは列車を 待つ人々、あるいは宿無し、僕と同じように深夜に到着して、その まま夜を明かそうというのかもしれない人々、あるいは駅に関係し た仕事をする人々、あるいは仕事がなくて行き場のない人々、僕に はただ推測するしかない事情を抱えた人々が、陸のような駅前広場 に横たわり、あるいは眠っていた。山ほどの荷物をかたわらにして 荷物にもたれるようにして眠る家族らしき人々、大きな麻の袋をシ ーツ代わりにして眠る人々、あるいは着の身着のまま地べたに横た わり、陸そのものと化したかのように動かない人々。  午前三時。長い列車の旅と睡眠を求める生理のために、体も頭も じんじんとしていた。広い駅前広場の向こうには闇の中に浮かび上 がるようにして、解放飯店の小さなネオンが認められた。しかし時 間が時間だし、今夜の分の宿代をとられるのはもったいないので、 朝まで待ってから安宿の勝利飯店にあたってみることに決める。し かし寝静まった有象無象の一人として広場のただ中に眠るというの は気が引けた。そこで安らかに休息をするというのにはあまりにも 異様な光景だったのだ。眠る人々を遠巻きにするように広場を渡り、 広場の端っこの方、地下街への入口の柱にもたれて腰を下ろした。 すぐ近くには何かの食べ物の小さな屋台が湯気を上げ、二、三人の 男が囁くように言葉を交わしあっていた。  目覚めはぼんぼりのようだと、僕は思う。蛍のように小さな丸い 目覚めが広場のそこここに寂しげな明かりを囲っていた。コンクリ ートの駅前広場に夜は静かに落ちて、世界から確実な輪郭をかき消 し、視界はすぐに手ざわりのない闇に飲まれてしまう。夜の目覚め が寂しいのは、世界というその土台、確実な舞台をはぐれているか らだ。目覚めはそのすぐかたわらにいる親しい人の眠りにさえも届 くことはできず、ましてや語りかけることもできはしない。そのと き目覚めは悟るのだ。確実性というものがもしあるのならば、この ときそれは眠りの領域の方へ、世界から夜の領域の方へと移動した のだと。目覚めはまるで自らの存在をいぶかるかのように頼りなげ な光をあたりに放つ。深夜のぼんぼりのように。そしてなすことも なくただ待っている。やがて世界が目覚め、夜の領域から立ち上が り、確実な基盤としての明るみをもたらすまで。  ふと立派な駅舎の上方を眺めると、闇の中に浮かび上がるように して『西安』という赤いネオンサインが光っていた。乏しい外灯の 明かりだけしかない薄闇に押し包まれた駅前広場に、ネオンサイン のくっきりとした『西安』という文字は、まるで灯台のような印象 を与える。灯台の光が陸を、陸の世界を象徴するように、闇夜を背 景にした『西安』の文字はそこに世界が存在することを象徴するか のようだ。薄闇に押し包まれた広場のそこここに頼りなげに光を放 つ目覚めが頼りにするのは『西安』のネオンサイン。そこに目覚め の土台、根拠としての世界が存在するという印だ。だが『西安』の ネオンサインは両義的だ。その赤い光が闇夜にくっきりとした輪郭 をきわだたせるほどに、逆に夜の遠さ深さがきわだつのだ。表象と しての世界は決して根拠ではないということ。確実は不確実の海に 浮かぶそれ自体一個のぼんぼりに過ぎない。

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