老婦人の夏          住吉千代美

閉ざされた門扉と もくれんの間に 真新しい蜘蛛の巣が 朝一番の光にきらめいている 編み目の隅に ひっそりと止まっているのは 細身のアシナガグモ きょう一日を生き抜くために なんとしても 私は扉を開けて その美しい編み目を破らねばならないのだ ギーッと軋みながら 貧相な門扉が開くと 蜘蛛の巣はもくれんの枝に一部を残し ちぎれちぎれに風に吹かれていく と ふいに忘れかけた記憶が蘇る 遠い国で誰かが名づけたという ― 老婦人の夏 ― 空には無数の蜘蛛の糸が 上昇気流に乗って浮遊するという 蜘蛛もまたその一本に乗って空を渡っていくという ヒトの魂も いつかは  不思議の糸に乗って 宇宙の彼方へと旅立っていくのであろう 蜘蛛の糸の切れ端が いっそう謎めいて しなやかに震えている           *〈老婦人の夏〉はドイツ語アルトパイベルゾンマーの日本語訳。蜘蛛の            糸が大気中を浮遊する現象をいう。日本では雪迎えとして知られる。

*五月、韓国の光州で、無数の白いわたぼうしが舞っていたのを思い出しました。 まるで、光州事件の死者たちのたましいが舞っているようで、立ちつくしたのでした。 1981年のことです。

戻る

ホームページ