詩集「雀のうた」 下沢勝井 著
自画像
鏡に映した己の像を
映った左手の右手が描く
絵かきたちはなぜあんな奇態なことをはじめるのだろう
描けば描くほどに
透明になるに決まっている画布に向かって
彼らは一体なにを写しとろうとしているのだろう
みつめられる自分が
みつめる自分であることを
どう納得するのだろう
やめるがいい
やめるがいい
透明になるに決まっている
自問と自答はやめるがいい
写しとられたその時に
あなた自身が消滅する
奇態な遊戯はやめるがいい
みよ
みつめている瞳の中へ
無限に映しなおされて蛸集する
あなたの中のあなたの永劫
瞬時が永劫のきわみをみせる
奇体な賭けは止めた方がいい
一九六〇(S35)年
おふくろさん
家の内でも杖が要るようになったおふくろは、厠から出てきたが、さ
あ自分の返る座敷が判らない。「困ったよう 困ったよう どうなった
もんだんずら」と廊下を手さぐりして歩き廻る。目は見えているはずな
のだから、瞽女のように、そう手探りまでして歩かなくてもよさそうな
ものをと、息子は腹を立てて見ている。
やっとべットにたどりついたおふくろは、深い息をはき、「屋根棟の
鬼瓦の上にお父さんが止まっておった」という。「鳥の格好してか」と
聞くと、「そうだ」という。息子が笑うと「おかしいか」とけげんな顔
だ。
ベットに寝かそうとすると、「高くておっかない」という。又の日、
ベットから起き出したおふくろは、「暗くならんうちに自家にかえらに
ゃ」という。彼女の中の <ウチ> というのは、どうやらここではなくて
(ふたりの息子とふたりの娘を産み、育て、ふたつの乳児を他界させた
ここではなくて)お手玉を掘り井戸に落としたままと聞く、十代までの
生家のことらしい。高い石垣に棲みついた白蛇さまの咄はもうしなかっ
たけれど……。
俎の上の小刻みな音。自在鉤の下には雛のような口を開け、座って待
つ子どもたちがおり、水場にはひとり忙しく立ち働く影があって、カチ
カチと瀬戸物の触れる音がする。
縞の着物に赤い襷をかけ、小糠袋でキュキュと戸棚を磨く。黄色のは
だか電球の下では、母の座りダコが瓶の栓のようにつるりと光る。
息子が熱にうなされての真夜、うすく目を開けると、氷嚢の水がタボ
タボとしていつもより白く大きい母親の顔がびっくりするほど近くにあ
った。目を開けるたびにそこにあった。
─ かあさんとおふくろの間とでもいったらいいものか。いつかどこか
でディスタンスができていて、お袋さんは遠くちぢんでいくばかり ─
─ 人さまにうしろ指さされんように、まてえに生きてきたで、もうな
ぁんにも思い残すことはない。
─ そりゃあ 渡る世間は鬼っこゴロゴロで泣かされたこともあったけ
んど、うれしいことの方がたんとだった。
─ ”お蔵建てたがいのちの証し、薪三百積んで安心よ”お形見のおベ
ベも箪笥がしまらんほど溜まったよう。
─ そりゃ若い頃は、不浄の体はみんなのつかい湯使えと石女の義母に
諭されて、ひなた水のような焚きなおしに洗濯しながら入ったがよう、
きょうはほれ、溢れるほどの湯を使わせてもらって、海までが見える。
あれは日本海というものだそうだが、海は世界中の海につながっていく
んズラ……。
一九九〇(H2)年
みち
山に登りたく思うのは
人に会わなくてもすむみちが
そこにあると
思ってみるからでしょうか
海が見たいと思うのは
ここまででおしまいのみちが
そこにあると
思ってみるからでしょうか
ひとつの道が岐れる不思議
ふたつの道が出会える不思議
あるいても あるいても
おしまいにならない道の不思議
一九八七(S52)年
*詩集「雀のうた」 下沢勝井 著
発行 悠龍社 東京都新宿区内籐町1-507 株式会社デザインFF
*1965年から1991年まで、著者がほぼ25年の間に書いた詩を集めた詩集です。
「その間詩的表現に関心はあったが、それに打ち込むということはなかった。そのため
なんの脈絡もない、その場限りの表現だけが残された」(あとがきより)ということで
すが、どうしてどうして、生活における著者のその時々の思いが、詩としてスナップ写
真のように定着されていて、この詩集自体が筆者の人生に寄り添っているという印象で
す。僕は、襟を正して読ませていただきました。