中国散歩報告T、U、V、W、X
下前幸一
一九九三年、五、六月。僕は初めての中国大陸を二か月間にわたっ
て旅行した。さしたる気負いもなく、これといった目的もなく、すが
れるツテといってはガイドブック一冊きり。旅というよりもむしろ散
歩という言葉が、僕の中国旅行にはピッタリくる。
上海―杭州―紹興―蘇州―揚州―南京―武漢―岳陽―長沙―南岳―
衡陽―桂林―南寧―貴陽―昆明―大理―石林―成都―ラサ―ゴルムド
―敦煌―蘭州―西安―大同―北京―天津。
立ち寄った都市をたどり直すとこのようになるのだけれども、僕に
とってこのような道程そのものにはさしたる価値はない。僕は僕にと
っての旅を捜しながら中国をふらついただけだ。そして今思う。旅と
はたぶんその結果から反照されて価値を与えられるものではなくそれ
自体が価値を生成するプロセスなのだと。
二か月間の中国旅行を終えて、この中国散歩報告の執筆にはそれか
らおよそ二年半を費やした。戸惑いと寂しさを道連れにした中国の旅
と、それを振り返り、そのとき何があり、僕は何を見て、いったい何
を感じていたのかを振り返る散歩報告の旅。現実の旅に重ねるように
して、ここ日本の都市の片隅で旅を振り返り、思索するもう一つの旅
をようやく今終えて、僕は真の意味での現在というものにたどりつい
たという気がする。
僕の歩く足音が聞こえてくるだろうか。旅の不確かさと同じくらい
不確かで、寂しさと不安を基調にしたような、それでいて妙に規則正
しいズックの靴音だ。君にもしもその音が聞こえたならばうれしい。
散歩の外から、あらかじめのこととして、そうであらねばならないも
のとしてやって来る一切のものを、いったん中断すること。僕と、僕
の踏み出す一歩との間にある種の真空を確保すること。そして、出来
事や情景が僕という既成観念に触れて酸化してしまう前に、それその
ものを感じるということ。そのことをおそらく僕は考えているからだ。
酸化した言葉からは寂しさや不安を基調にしたような足音は聞こえて
はこないだろう。
この中国散歩報告において、僕はあなたに大きな未知を伝達するこ
とはできない。実用的な意味での情報を得るにはふさわしい本ではな
いだろう。だが本当のところは、未知や情報自体にはさしたる価値は
なく、プロセスこそが価値であり、伝えるべき全てなのだと僕は確信
している。
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