台湾 九七年夏
下前幸一
夕暮れの基隆(チーロン)。曇り空の下に、立ちこめる湿度と人いきれ。
川沿いに設けられた祭りの屋台街のまばゆい明かり。派手な電飾に飾られた
トラックの舞台。四方からてんで勝手にがなりあい、渾然とした響きとして、
地鳴りのように鳴り渡る音響。
さっき、7イレブンで買った台湾ビールを片手に、歩道に座り込んで、僕
らは中元祭の行列が始まるのを待っている。屋台街の点心屋で買った焼売な
どをつまみながら。
道路にずらっと並んだ電飾のトラックや、わざわざこの日のために仕立て
られた舞台車は、それを出品(奉納?)する一族の姓と、それぞれの趣向を
誇示しながら、行進の始まりを待ちかまえている。
京劇のような時代人形を飾り付けた舞台車。本物の楽隊を乗せて、ライブ
の音楽を聞かせる舞台車。もっともその音楽は大きなスピーカーから吐き出
される割れんばかりの大音響にかき消されがちなのだが。あるいは荷台をサ
ーカスの舞台のようにしつらえて、曲芸を見せる車。あるいは単調な動作を
繰り返す、からくりの時代人形。あるいは京劇の演芸会の舞台と化した派手
なトラック。基隆のメインストリートをぐるっと巡るようにして、行進を待
つトラック、舞台車の数は計り知れない。
暮れ落ちた基隆の街に鳴り響く太鼓や鐘の音、甲高いうなり声。エンジン
の音、発電機の音。スピーカーの割れた音響。全体の構成のことなどは頭に
なく、ただただ大音響を発し、あるいは我先にとその派手さを競い合うかの
ようなトラックの電飾、中国的な色彩の氾濫。歩道に群がる見物人たち。目
の前の車道を飽きることなく行ったり来たりするローラースケートの子供た
ち。
台湾ビールの一杯で早くもほろ酔いになりながら、僕はすでに、出くわし
た基隆の中元祭になじんでしまっている。どこか日本の地方都市で、たまた
ま出くわした夏祭りの賑わいに心をときめかしているように。
やがて、どこからともなく行進が始まると、ひときわ音響のレベルはアッ
プされ、それに鼓舞されるかのように見物人たちも立ち上がったり、前へ前
へと乗り出したり、押し合いへし合いの様相なのだ。
僕らの目前を、幾度も停滞を繰り返しながら、ゆっくりと舞台車が通り過
ぎていく。渾然とした音響の中から、目の前に来た舞台車の音楽が急にくっ
きりと浮かび上がる。かと思うと、すぐにまた遠ざかり、次の舞台車からは
俳優の甲高いうなり声。それぞれの舞台車は、一族の隆盛を誇示するかのよ
うに、張り切っている。そして、遠ざかっていく。そして、延々と、延々と
トラックと舞台車の行列は続いた。それはあたかも世代から世代へと延々と
連なる、時代を遡る行列のようにも思われるのだった。
雨が降り始めていた。夕立のような小雨は、次第にその雨足を強めた。歩
道にひしめき合う見物人たちをかき分けるようにして、僕らは移動する。ホ
テルに戻って、ゆっくりと休憩しようと。あまりの音響と熱気と排気ガスと、
そして雨に当てられたのかもしれない。
コダークホテルは基隆中心部の中正路にあり、そのすぐ近くには中元祭の
中心とも言うべき階段状の観客席が作られていて、市のお偉方などが行列を
見物するようになっていた。その前にはテレビ中継のテーブルが設置され、
レポーターやゲストがテレビカメラに向かって声をあげていた。極めつけの
混雑。
ホテルのテレビは、さっき本物の前を通ってきた舞台車の行列やレポータ
ーの姿を映し出していた。いかにも急ごしらえという印象の画面。まるで素
人のビデオ画面のような。急ごしらえの大工仕事と音響と雨に濡れた伝統。
八月一六日夜。基隆コダークホテル。幸運にも(?)出くわした中元祭の
賑わいに、そのような一族の栄華や伝統を失って、僕らは僕らでしかなく、
僕らとは僕らの孤独でしかない、そのような僕と彼女が、中国語の字幕のつ
いたアメリカ映画をぼんやりと眺めている、基隆、中元祭の夜。
次の日、伝統は払拭されていた。なにか大きなものが通り過ぎた跡のよう
ながらんとした印象が街には漂っていた。木組みの観客席は撤去され始めて
いた。濡れた歩道に、建築現場のように、資材が散らばっていた。基隆のメ
インストリートを数珠つなぎになって埋め尽くしていた大きな電飾のトラッ
クや大音響をたてていた舞台車はどこへ行ってしまったのか。駐車場に何台
かの舞台車が、打ち上げられたかのように中元祭の名残をとどめているだけ
だ。
曇り空の下を、僕らは基隆駅の方へと歩いた。駅のコインロッカーに荷物
を預けて、金瓜石行きのバスに乗る。バスで四○分ほど、金瓜石手前の九分
(チューフェン)という街まで。途中、列車駅のある瑞芳という街を通る他
は、上り下りの多い山がちの田舎道だ。 九分の街は山の斜面にへばりつく
ように広がる旧金山の街で、日本の統治時代にその最盛期を迎えた。しかし
僕らが基隆からさらに足をのばして九分まで行ってみようと思ったのは、そ
こが侯孝賢監督の映画『非情城市』の舞台となった街だからだ。かつての金
山の街も一九四四年に廃坑になったあとは、全盛時の面影もなく寂れていた
のだが、映画のヒットによって歴史の忘却からよみがえり、レトロな観光地
として、静かなブームを呼んでいる。
バスは九分の街の外側をたどるように山道を登っていく。ガイドブックに
も取り上げられていた観光地なので、観光客も多いのだろうと思っていたの
だけれども、あいにくの曇天のためか、九分の街の入り口にあたる旧道とい
うバス停で降りたのは、ほんの数人だった。
バス道からすぐに裏町の路地という感じの道が、九分の街を横断するよう
に延びている。道の両側には、お土産物の店や、民宿、軽食や喫茶、アクセ
サリーやアンティークの店、アトリエなどが並んでいて、独特の雰囲気を漂
わせている。若い芸術家たちが多く移り住むこの街の雰囲気に惹かれて、路
地を行き来する観光客は圧倒的に若いグループやカップルが多い。
路地沿いに並ぶ店々を覗き込みながら、ゆっくりと九分の街を端から端ま
で歩いた。少し視界の開けたところに出ると、空はどんよりと曇り、雨が近
づいているという濃密な気配が感じられた。
『九分茶園』という立派な茶房へ入っていく。お昼時だったのでちょっと
腹の足しになるようなものを、と思ったのだけれども、どうやらそこでは飲
み物しか出せないらしい。身振り手振りのやりとりの後で、店の女性は裏口
から裏路地の階段を通って少し下りたところにあるレストランを案内してく
れた。
雨が降り始めていた。風が強く吹いていた。レストランで食事をすませた
あと、傘をすぼめるようにして、人気のない道を、金鉱の旧坑口まで歩いた。
旧坑口前は公園になっていて、雨に濡れた木立や背後の家屋がひっそりとた
たずんでいた。公園の亭には、若い一組のカップルだけ。雨の情景がひっそ
りと彼らを囲っているかのようだった。
再び、九分の街中に向かう。堅崎路と名付けられた石段の坂道は、九分の
街を縦断する、いわばメインストリートで、その中心部にある今は『非情城
市』という名の茶房になっている三階建ての建物が映画『非情城市』の舞台
になった。
一九四五年八月の玉音放送から始まるこの映画は、日本の植民地時代や戦
争の記憶を鮮明に滲ませながら、国民党(外省人)による本省人(台湾生ま
れの人)に対するテロや暴力的な支配を、林一家の姿を通して、淡々と描く。
それは長い間、国民党による軍事独裁の下で、弾圧され、禁止された記憶だ。
あたかも九分の地下深く眠っていた鉱石のように、それぞれの胸の奥深くに
しまわれたまま、石化した記憶。それは現実(戒厳令やその後の高度成長)
との隔たりにおいて、寡黙であり、さらに寡黙だ。
かつて、一九六○、七○年台には、台湾はある意味で、全土が九分だった
だろう。しかし今、一九九七年、驚くほどの経済成長を果たした今、台北は
言うに及ばず、基隆などの地方都市でも街並みは現代的に整備され、現代的
な消費文化が人々の記憶や、記憶に根ざした言葉を洗い流していく。九分は
一人の映画監督によって再発見された旧鉱山の街、いやそれは街というより
も記憶そのもののことなのかもしれない。
坂道と石段の街、九分は雨に濡れていた。色とりどりの傘をさして行き交
う若い観光客の華やぎもひっそりと肩を濡らしているかのようだった。
見晴らしのよい喫茶店に腰を下ろして、僕らは黒いコールタールの屋根屋
根を眺めていた。少し雨に濡れたせいか、冷房の効いた店内は肌寒い感じが
した。はるか下界には、暗い海。空には巨大な雨雲が渦を巻きながら迫って
くるような、なにか恐ろしいような気配が漂っていた。台風が近づいていた。
寂しい山の中にこのまま孤立してしまうのではないかという恐怖に似た感情
が、ひやりと胸を掠めた。
八月一八日、朝。台北コダークホテル。中山北路2段。
激しい雨が降っている。さっき、ホテルのレストランで朝食を済ませて、
もう僕らはすることがない。もしかして故宮博物館が開いていたらと思って、
電話をしてみたけれども、もちろん「不開(プーカイ)」というそっけない
答え。
テレビは台風情報を頻繁に流している。それによると、台風は台湾の北を
掠めるようにして、南東から北西へと進路を進めていて、今が峠。特に、北
部の山手では土砂崩れなどのため、死者も出ているようだ。台北でも公共機
関、会社はすべて休み、ほとんどの商店なども休業している。
NHKの衛星放送は、野茂投手の登板する大リーグの試合を放送している。
しばらくホテルの部屋でごろごろしていたのだけれども、退屈なので、意を
決して外出する。
実際に外へ出てみると、思ったよりも雨風は強く、歩道にまで吹き込んで
くるし、風のために傘もさしてはいられない。あわてて、コダークホテルの
すぐ近くにあるロイヤルホテルの喫茶室に駆け込んだ。
歩道に面した喫茶室のテーブルから、台風を見ていた。台北のメインスト
リート、中山北路を水しぶきをあげながら、タクシーや、ときおりはバスが
通り過ぎた。しかしそれもごくたまのことで、ほとんどのバスは運休のよう
だ。大通りの向こうの商店はことごとくシャッターを閉ざしていた。
台風の雨は、まるで何ものかによって背後からたぐられているかのように、
生きて、動き、のたうっていた。それは、ただの豪雨ではない。雨は、瞬時
叩きつけるかのように道路を垂直に叩くかと思えば、次の瞬間には、すっと
退くようにその雨足を弱める。そして、その次の瞬間には、弱まった雨足に
ふと気を緩めたこちらの心を見透かすかのように、違う方向から叩きつける。
僕はふと、台風を見ているのだと、改めて思う。それは雨だけではなく、
風だけでもなく、あるいはまた雨風でもない。なにかその背後にうごめく巨
大なものの気配。そして僕は、子供の頃、雨戸を閉ざした家の中で、台風を
感じていた、あるいは、聴いていたことがあったのを思い出す。だが、この
ようにして、まるで映画でも見るかのように、台風を見ていたことがあった
だろうか、と思う。
一時間ほどもそのようにしていただろうか。心持ち風雨が弱まってきたよ
うなので、ホテルを出て、街をひとまわりした。ほとんどの商店は閉まって
いたけれども、一部、コンビニなどが開いていた。また、レストランなども、
台風が通り過ぎることを見越して、夜のために準備を始めている店もあった。
雨風はまだまだ強かったけれども、すでに台風は峠を越え、街には薄日が射
している印象があった。
開店している適当な食堂がなかったので、コンビニ寿司の店で、寿司とカ
ップめんを買い込んで、ホテルに戻った。
午後。台風の中に孤立して、僕らはホテルの部屋で過ごした。テレビの中
国語をぼんやりと聞きながら、僕は、いつもはあたりまえに僕らのまわりに
充満している何ものかから切断されているように感じていた。それは日々の
暮らしから、あるいは仕事から、あるいは台湾という観光旅行からでもあっ
た。そう、僕らは旅行からさえ切断されて、ホテルの部屋に孤立していた。
孤立はまた、静止でもある。あたりまえの営みが止まるということ。そのと
き、その負の加速度のただ中において露出するもの。その一瞬の静止におい
て、佇立するもの。
それは、記憶だ。記憶だろうと、今、直感的に思う。と言うよりも、それ
を僕は記憶と名付けようと思うのだ。
雨は上がっていた。中山路の濡れた歩道を、水たまりを避けながら、僕ら
は歩いた。台北駅の南側の繁華街には、開いているレストランがあるかもし
れないと期待して。いつもは商店などの明かりで賑わう歩道は、暮れ落ちて
寂しかった。繁華街はひっそりとしていた。看板が風に落ちていた。
その夜、台湾は寡黙だった。
そして、僕らは不思議に自由だった。
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