詩集『沈黙』 大井康暢著

谷間の伝説

人影のないビルには弱い冬の日が差していた 冷えた壁にしらじらと裸の並木が続いている 押し潰された朝の悲鳴が嘘のような凪の気配 ああ、何という穏やかな静謐 懐かしい影のぬくもり むかし谷間には平和を破る暴力があった 窓ガラスが飛散し救急車が走り小鳥が飛びたち ダイナマイトは谷間の神話だったがヨーロッパでは 硝煙に見え隠れする兵士たちを縫って戦車が進んだ 今でもラッシュの朝は険しいかお顔、兵士たちの顔 都会の谷間には郷愁がうずくまり ベンチでは男女が抱擁し風が裾をひるがえす 静かな日差しの下には途絶えた時間の流れがある 暗黒の空に高層ビルが墓のように立ち 人通りの少ない官庁街に街灯の影が長い 細い月が猫の目のように白く浮かび だれもいないビルの窓はかたく閉ざされている 谷間の営みは繰り返される廃墟の発掘だ 朝になればよみがえる死者たち 汗臭い若者の筋肉は存分に太陽を浴び 固い舗石に打ち込むつるはしに雑草が緑の芽を出している

日時計

午後の目覚めのはかなさは 蘇生した水死人の狼狽だ 逃げてきた生の岸辺へ打ち返され ずぶぬれになって放りだされている うす汚れた水鳥だ 青い空の虚ろのような 抜け殻となった自分の肉体に またもどる それが午睡の不覚の仮死だったのだ 秋の夕暮れ 近づく台風に 空は重い不安を抱えて 息苦しく黙っている 不気味な夕焼けの厚い雲は 斑に光り 時に不吉な予兆のように地上を赤く染め じっと動かないので まぶしい片雲の隙間から 永遠が記憶のように顔をだしていた この道を歩き 夕暮れの雑踏に混じって腕を組んで遠ざかる 若い男女の姿を見るのも いつかは出来なくなる 生のどこにも 死そのものを見ることは出来ない 他人の死や葬式や墓石は死ではない それはただ死の先触れ 人生の時間切れを知らせる ちっぽけな時計は それでもいつでも 動いている

*詩集「沈黙」 思潮社発行
 以前に紹介させていただいた大井康暢氏の新しい詩集です。自由詩とともに定形詩の試みが多くなされています。
 全体を通読して感じることは「死」が静かなたたずまいで、詩のそばに寄り添っているという印象です。静かな、見えない影のような「死」
 氏にはまた、大著「中原中也論」(土曜美術社発行)を送っていただきました。あまりの本の厚さに、まだ読むことができずにいますが、また紹介できればと思います。

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