詩集「天の山羊」
たなかよしゆき著
サキサキ
春の夕暮れ
しづかないちにちがおわろうとするころ
畑へひとっ走り
喇叭水仙の花束をつくってくる
帰ってきたら
テーブルの上の電気釜から
しろい汁が噴きこぼれている
そのにおいのなんというやわらかなあまさ
弥生のころのおれも
竪穴式の家で
土器釜で炊いた飯を
ふうふういって
しゃもじ風のもので食べていたにちがいない
鹿の肉となっぱを塩で煮たおかずなんぞ手でつかんで
そのころ
美味あるいはしあわせのことを何といっていたか
サキサキとでも叫んでいたか
静かに生きよ ― 一九九六年盛夏
青い稲の刀のような葉先に
露がいっぱい光る朝
草ぼうぼうのぼうの畑に出かける
麦わら帽子に頬かむり長袖シャツに軍手 ゴム長靴
鎌と鍬と剪定鋏
妻は悲鳴をあげて
もう畑を借りるのはやめようかというが
たとえぶざまな畑でも
(おれの人生のように)
やはりつづけた方がよいという
向日葵やダリア
それにぶかっこうでもなすやきゅうり
ピーマンやししとうやトマトがもたらしてくれるものは大きい
虫に喰われた豆でもおれはよろこんで喰う
草が生えていたっていいじゃないか
土の上で汗することは
おれたちに歓びをもたらしてくれる
こおろぎやみみず
じゃこうあげはやにいにいぜみ
だんご虫やきちきちばったやあしながばちが
いのちについてさまざまなことを教えてくれそうな気がする
おれたちの拙い人生のやすらぎの場所
ひとに笑われたって仕方ない
このへたくそな畑から
おれたちは大輪の向日葵を切って束にし
家の図書室に飾る
きいろい太陽が世界を明るく照らしてくれるだろう
(おれの畑とよく似たおれの詩から
向日葵のような言葉をとり出して束にしてくれるひとがいたら
どれくらいうれしいだろう)
汗びっしょりになって
自転車に乗って家に帰ると
庭のさるすべりの木に
えながの群れがきて騒いでいた
(しずかに生きよ)
虚しい祭りをそっと排除して
たましいのにぎわいに
生きようと思う
*詩集「天の山羊」
発行 文文舎(ぶんぶんしゃ)奈良県大和高田市築山656 定価1200円
「単純なものをかみしめ味わう方法」(貧乏神について)昔、そんなことを知っていたような気がする。しかし、年をとるにつれて、むつかしくなってくる。知ること、分かること、そして、生きること、これらの違い。たなかさんは言葉以上の、生きることをなんとかしてあらわそうとしているのかもしれません。