詩集「風の器」 横田英子 著
途上の風
掌の上の一匹の蟻
ころすのはやさしいが
犯すことはできない
多分一本の花を折っても
花の心を知ることはない
あなたを知っても
どこまでわかり合えることだろう
白地図に生まれた町や
棲み家をしかと印すことができない
不確かな位置で
何万語発したことだろう
それら飛びたったことばが
浮遊する辺り
気泡のようにゆらめく
掌の蟻が逃げる
ひとたまりもないそのことに
気づくはずもなく
必死に……
蟻だけでなく
あらゆる生きものが
逃げていく
あられもない後ろ姿を見せて
どこかに安全な生きる場所が
あると信じて
このとき
眼前にクローズアップするのは
野の端で
あお向けになってこときれていた
一羽の烏の黒い姿だ
無造作に投げ捨てられた
くちばしの傾斜に見た死のたしかさ
バスの車窓から手向け花を
見るたびに
見送った人たちの骨が
胸底で鳴る
犯されない
逃げられない
生きものたちのたどるみちすじの途上で
冬のかたちに雲が
移動している
風の位置
肌寒くなるころ
通勤の帰途の頭上に
きまって輝くオリオン
今年はそれさえ安堵できない
確かなものがない
そこに行けば何があるか
わからない
その位置が
いつも揺れている
三メートルもの滝を上りつめれば
鮭は そこに
確かな自分の場所があることを
知っている
みかんの葉に
卵をうみつける
あげは蝶は
そこが確かなことを
知っている
まさぐり続けた
歳月のたよりなさが
身にしみる日
魚の腹をまさぐる
指の先にとらえどころのない
どろりとした感触
こんなはずではなかった
まさぐる母の懐は
豊かだった
まさぐればまさぐるほど
掌に
伝わる温もりがあった
与えられる
よろこびのはじめの
まさぐれば
つかみとれるものと
思いこんだ
それは習性となって
もっと深く
まさぐろうとする
さらに一匹
魚の腹を裂く
血なまぐさい
その底から
うっすらと
指にのって
匂う
海の香か
まさぐり続け
もうこれ以上
卑小にしたくない
私の道程(みちのり)の途上に
何もかも抉りとられた
魚が静かに横たわる
*詩集「風の器」 発行 編集工房ノア 大阪市北区中津3-17-5
*横田さんのこの詩集は関西詩人協会の昨年の総会の時に、いただきました。
*風というのは、存在をつねにはぐれていく不確かさなのですが、そのある種の透明性が、
暮らしという非定形で粘性のある実質に触れ、あるいはとらえらえた時の感触、魚の内臓
のズルリとした感触がとても印象的です。