詩集「眠る町」    吉井淑

糸屑の束がまるまって軒下の釘にかかっている 微細な糸先が陽をうけてかすかにそよいでいる 全体ではほのかな闇を包んでいる 名前とか思い出とかすべて無くして 風に揺れている それは死体でもある 軽い今 陽が闇を透かすと サカナと呼ばれていた記憶が遠いところからやってくる なめらかな肉のたゆたいとほのかな悪臭 痙攣とにぶい痛みの記憶 花びらのようにかさなって開いたことがある 柔らかいものを締めた 細かく刻んだ ほそく裂いた オンナとも呼ばれていた いつも小さな卵が星のように内部を巡っていた それを 悲しんだのか潰したのだったか 白く光って揺れている 今

シークレット

夜になると裏庭には小さな灯りがひとつともる。灯りの下に少年が立 っていることがある。ふいに生まれ出たようにひっそりと立っている。 よく見ると彼はまわっている。両脚に重心をおき、腕を翼の高さに挙 げて。喜々として頬を染めながら。 回転の速度によって、空中に舞い上がりそうになったり地中に埋もれ そうになったりする。倒れないようにうまくまわるのに懸命だ。眠れ ない夜、そんな彼をじっと見守っている。彼の胸の鼓動がしだいに高 くなっていくのがきこえてくるようだ。地球が地軸を傾けて今も自転 しているということを思い出したりする。 「どこからきたの」 「なまえは」 「エアロパ、アアロポ、アアロロ、ロロル……」 信号のような音が聞こえてくる。ただ旋回している風の音かもしれな い。じっと耳を澄まして、それらをノートにメモして見たり、すこし づつ解読を試みたり。そんな時少年の顔はずるそうに笑っているよう に見える。 彼は激しい怒りの顔をしていることがある。紅潮してぶんぶん回転す る。そのまま壊れてしまいそうだし、沈んでしまいそうで気が気では ない。時にはずいぶん老いて見える。老人の顔を深くうつむけて、い つまでも静かにまわっている。灯りの下で白い髪がひときわ光ってい る。 彼を見ていた次の朝は、しんみりと美しく明ける。

*浮游社 619−02京都府木津町兜台1−2−11−503 定価1500円
『その後の故郷について、町へ一度だけ問い合わせてみたことがあるが、私の語ってきたような村はどこにもないということだった。
…故郷はもうどこにもないけれど、私の立っている台所は細い泥道の途上にあると、今も思える。』(「その後の故郷について」より)

 どこにもない故郷と現実としての台所の間で二重化されて揺れている視界とでもいう情景が、詩と散文詩で表現されています。

97年2月号より

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