震災・原発事故から12年半。双葉町、大熊町など帰宅困難区域の一部で避難指示が解除され、復興への歩みとして伝えられている。一方で、放射能汚染土の利用が所沢や新宿で問題になり、またこの8月24日には処理汚染水の海洋放出が強行された。原子力災害をめぐってなにが起こっているのか。実情を知るために、10月14、15日、福島を訪問した。当研究所とよつ葉の研修部会の共催で、保養キャンプのメンバーも参加し、7名の訪問団となった。以下、報告する。


伝承館、福島への第一歩として

 福島空港から、あぶくま自動車道を経由して、東日本大震災・原子力災害伝承館(以下、伝承館)に向かう。福島空港あたりでは簡易型の線量計で、0.05μSv/hだった放射線量は、道路脇のモニタリングポストの表示によると、0.3から0.8、やがて双葉町付近では1.9と、跳ね上がった。道路は除染されているが周りは帰宅困難区域のただ中なのだ。

 伝承館が位置するのは双葉町の東北端、海近く。この地区は2020年3月に避難指示が解除され、環境整備が進められているが、津波に襲われた平坦な空き地がただ広がっている。空漠とした土地に伝承館が開館したのは2020年9月。総工費53億円をかけた立派な建築物だ。付近には双葉町産業交流センターのビルも建っているが、それ以外は視界の向こうに2、3の建物が見えるばかりだ。

 伝承館1階ホールの巨大スクリーンでは、プロローグとして、東日本大震災と津波、福島第一原発の事故について、映像とアニメで当時の状況を伝える。2階の常設展示室では、原発事故の凄まじさやその経過、東電や政府の緊迫した対応などを、さまざまな展示物や映像によって再現している。事故後の福島第一原発のジオラマは原発事故の凄惨な状況を手に取るように伝えている。一方で、展示の後半には、原発事故と放射能汚染からの復興が強調されている。福島イノベーションコースト構想などが伝えられ、大地震・津波という天災と原発事故という人災の教訓を踏まえて、前を向いて歩もうという促しが、そこには感じられる。同行した高校生たちはどのように感じただろうか。

 伝承館の展示、そこには人がいないというのが大きな印象だ。なるほど、語り部による伝承は行われているが、いかにも取ってつけたような印象だ。被災地に暮らす住民たちや、他郷で暮らす避難者たちの姿や思いはなく、統計数字として展示されるばかりだ。住民たちが力を寄せ合って今も東電と国の責任を問い続けている裁判の記録や現状の報告もない。国が資金を出し、福島県が運営するという公共施設の限界だろうか。

 参加者の一人の報告には、「まちづくりシュミレーター」というゲーム感覚の「復興への挑戦」に違和感をもったという感想があった。その違和感をこそ、今回の福島訪問の基調低音として携えていきたい。

 伝承館の屋上に立つと、だだっ広い風景が一望できる。東の方には新しい防潮堤と海。北の方には整備されつつある復興祈念公園。そして南の方角には中間貯蔵施設とここからは見えないけれども福島第一原発があるはずだ。原発事故から12年半。どのような現実に私たちは出会うことになるだろうか。


JR双葉駅周辺の情景は

 JR常磐線双葉駅あたりをクルマでひと回りした。昼食のためにコンビニがないかと探したのだが、見つからず。真新しい駅舎周辺にはひと気もない。双葉町は伝承館のある東北部を覗いて全町が帰宅困難区域に指定されていたのだが、双葉駅周辺が昨年、2022年8月に、特別復興再生拠点区域として、避難指示が解除された。駅の西側には新しく復興住宅が建設されているが、駅の東側はかつての商店や住宅は解体されて、がらんとした印象だ。

 双葉駅前のモニタリングポストの表示は0.27μSv/h。ちなみに、ICRP(国際放射線防護委員会)が国際基準として勧告する、一般の人々の健康を守るための基準である公衆被ばくの線量限度は、年間で1mSvだ。日本政府もそれを国の方針としている。年間1mSvは、自然放射能の影響などを加味して時間あたりに換算すると、0.23μSv/hということになる。

 一方で、政府は、福島第一原子力発電所事故において、ICRPの緊急時被ばく状況における放射線防護の参考レベルを考慮して、年間20mSvに達する恐れのある地域に避難指示を行った。また逆に、年間の被ばく線量が20mSv以下となることが確実であることが確認された地域について、避難指示を解除し、住民たちに帰還を促している。福島の住民に関しては公衆被ばく線量限度、1mSvは適用されないというわけだ。ちなみに20mSvは時間あたりに換算すると、3.8μSv/hとなる。

 双葉駅周辺は避難指示が解除されたけれども、まだまだ復興という言葉にはほど遠いという印象だ。道路沿いの双葉町消防団の駐車場のシャッターは、地震の影響だろうか、めくれ上がったまま放置され、正面の時計は2時46分を指したまま、時が止まったように捨て置かれていた。付近のガソリンスタンドも閉鎖されたまま、12年半の時を凍てつかせているようだった。敷地には黒いフレコンバッグが積み上げられ、スタンド脇に設置された自動販売機は錆にまみれたまま、死んでいた。



いわき市民放射能測定室たらちね

 双葉駅をあとにして、常磐自動車道を南へ、いわき市の方へと向かう。

 認定NPOいわき放射能市民測定室たらちねを訪問。たらちねは2011年3月11日の東日本大震災による福島第一原子力発電所の爆発事故を受けて、11月13日、市民自らの手で開所された。放射能の測定では、セシウム134と137、ストロンチウム90、トリチウムの測定を行っている。対象は水、食品、土、資材(葉っぱや土壌中の有機物)、空気中塵埃と、海洋調査。その他にたらちねクリニックとして、一般診療やホールボディーカウンターによる全身放射能測定、子どもの健康診断「子どもドッグ」など。また、甲状腺・出張健診プロジェクトとして、子どもたちに無料の健診を行っている。また、保養プロジェクトの窓口としての活動を行い、その他に心のケア事業を実施している。

 たらちねで放射能測定をされている田中典子さんにお話を伺った。まず説明していただいたのは、放射能測定の手順とあらましだ。

 ガンマ線を測定するのは一つはゲルマニウム半導体検出器とNalシンチレーション検出器で、数台が食品や土壌中の放射性物質を測定するのに用いられる。専用の容器にたとえば刻んだ野菜を詰めてセットするだけで測定が可能だ。データはパソコンに入力され、核種ごとの値を測定することができる。検出器のまわりと下にはペットボトルに水を詰めて敷き詰めてある。これは天然放射能を遮断するためで、お金がないために工夫しているそうだ。

 ベータ線を測定するのは液体シンチレーションカウンターで、トリチウムとストロンチウムを測定する。3台が設置されていて、1台が海水と資材、もう1台が食材の測定用だ。さらに新しい1台はトリチウム専用で、かなり低い数値の放射能も測定できる。今後の海洋調査に威力を発揮できるだろう。ベータ線の測定には前処理が必要で、たらちねにはそのための一室がある。



 特に、トリチウム測定についての前処理の器材を説明していただいた。トリチウムの存在形態としては、自由水、組織自由水型、有機結合型がある。組織自由水型というのは、たとえば魚の身の中に水分として含まれるトリチウムで、有機結合型というのは魚の身の組織として結合したトリチウムだ。組織自由形トリチウムは、器材の中で圧力をかけて、魚の中に含まれる水分を吸引して抽出する。有機結合型トリチウムはさらにカサカサになった魚の身を燃焼させることによって抽出する。こうして水の状態になったトリチウムはさらに電解装置で濃縮され、しかる後に液体シンチレーションカウンターで測定される。

 ストロンチウムの前処理については詳しいことは聞けなかったが、塩酸や硝酸という劇物を扱うさらに複雑な作業になる。ストロンチウムもトリチウムも前処理だけで1週間ぐらいかかってしまうので、月に測定できる件数は限られるということだ。

 測定された放射性物質の値については、ここでは詳しくお伝えすることはできないけれども、ぜひともたらちねのホームページを当たっていただきたい。

 食品に関しては、放射性物質を吸い込みやすいものと、吸い込みにくいものがあり、またその生育の環境にも左右される。昨年あたりの測定結果を見ると、福島産の食材の約9割は測定下限値以下(ND)となっている。ただジビエと言われる猪や鹿は危ない。また山菜類やキノコ類は一般に高いが、とりわけコシアブラが爆発的に高い。福島だけではなく、宮城や山形という離れたところでも高い。一方で、同じ山菜でもタラの芽はそれほどでもない。果物では柿や柚子など、特定のものが高い。野菜ではさつまいもなど土の中のものが高い傾向にある。また、海の魚よりは山の魚。餌にする昆虫が高いのが影響しているようだ。

 廊下には先週、近くの大きな公園から採取してきたという40ほどの土のサンプルが並べて干されていた。公園の土に関しては、ボランティアのママベク(TEAMママベク子どもの環境守り隊)とも連携して、いわき市内の公園すべてを測定する計画で、すでに8割方終えたという。場所によっては1万Bqを超えるような場所もあり、そんな時は行政に除染を依頼している。

 たらちねでは昨年末に、大熊町の、先行して避難指示が解除された大川原地区と、昨年6月に解除された特定復興再生拠点区域の放射能測定を行っている。それによると大川原地区では比較的線量は低かったが、子どもたちが通う「学び舎夢の森」裏手の田んぼのあぜ道から6.16μSvの空間線量、63,727Bq/kgの土壌汚染が確認された。さらに大野駅周辺の特定復興再生拠点区域では数万Bqから10万Bqという土壌汚染が確認されている。

 海洋や川の汚染については、セシウムの他にトリチウムの測定を行っているが、環境中にわずかなトリチウムが観測されている。これらの観測結果は今後の測定結果を解析するにあたって、貴重なバックグラウンドのデータとして考えられる。政府が処理汚染水の海洋放出を行ったのは8月24日だが、たらちねによる直近の海洋調査は23日で、今は放出される以前のデータしかないが、次回の調査が11月に予定されているので、今後の結果が期待されるところだ。

 たらちねの活動であるクリニックや甲状腺検診、保養についても伺った。それによると、最近の状況として、福島では放射能の話題がだんだんタブーになっているということだ。一般の診療所では放射能の影響について話しづらいので、たらちねのクリニックに来る患者さんもおられるそうだ。また、保養についても、たとえば学校で保養のために休むと言うと、何のために保養をやっているんですか、と訝しがられたりする。保養の意味も少しずつ変わってきていて、震災後の日常的なストレスから逃れて休息するという希望もあり、ただ放射能を避けて健康的な生活をするということだけではなくなってきている。一方で、保養の参加者には事前に必ず尿の検査をしてもらうのだが、放射能が出ない子の方が少ないというのが現実でもある。大熊町など線量の高い場所で暮らす子どもたちも多いので、保養の活動は今後も必要だろうと考えている。甲状腺検診は子どもたちに無料で行っているが、クリニックの先生によると、セシウムも甲状腺がんの原因になり得るという。幸い、たらちねの甲状腺検診ではがんは今のところ見つかっていないが、今後も持続的な健診が必要だ。


処理汚染水の海洋放出、その問題点

 話題になっている処理汚染水の海洋放出について、9月9日に行われたよつばの学校で、FoE Japanの満田夏花さんの講演が行われたので、その要旨をかいつまんで報告しておきたい。

 ・処理汚染水放出の期間だが、東電のシミュレーションでは30年となっているが、デブリの取りだしは目途も立たず、地下水は流れ込み続けているので、さらに長期化するのは必至だ。放出の費用は当初、17~34億円と言われていたが、現段階ですでに1200億円以上、さらに増えていくだろう。

 ・現時点での処理汚染水130万㎥に含まれるトリチウムは約780兆Bq。福島原発稼働時の約350年分だ。さらに現在タンクに貯められている水の7割弱で、トリチウム以外の放射性物質が全体として排出基準を上回っている。処理汚染水は、通常の原発から排出される水とはまったく異なり、高濃度の放射性物質であるデブリに直接触れた水なのだ。

 ・トリチウムから放出されるエネルギーは小さく、β線は飛距離が短く安全だと言われるが、体内に入ったときは別だ。トリチウムが有機化合物の水素と置き換わって人体に取り込まれると長くとどまり、近くの細胞に影響を与えるし、またDNAを構成する水素と置き換わったときは、トリチウムがヘリウムに改変してDNAが破損する影響がある。政府・東電は処理汚染水をトリチウムの排出濃度基準6万Bq/lの40分の1、1500Bq/lに希釈して放出すると言うが、希釈しても放射能の総量は同じだ。トリチウムによる健康被害は原発や再処理工場付近の住民について報告もされている。

 ・処理汚染水の扱いについては、原子力市民委員会から、「大型タンク貯留案」と「モルタル固化処分案」が提案されているが、政府・東電はこういった代替案について議論もないまま拒否している。

 ・政府・東電は2015年に、福島県漁業協同組合連合会(県漁連)や全国漁業協同組合連合会(全漁連)と処理汚染水について「関係者の理解なしには、いかなる処分も行わない」と文書で約束をしている。今回の海洋放出はこの約束を反故にするものだ。


放射能汚染水と小名浜の漁業

 処理汚染水の海洋放出について、その影響を真っ先に受けると考えられる福島の漁業関係者からお話を伺った。たらちねの場所をお借りして福島の漁業についてお聞きしたのは、小名浜機船底曳網漁業協同組合・理事の柳内孝之さん。



 福島県の沖合は北からの寒流である親潮と南からの暖流である黒潮が交わる潮目の海と呼ばれ、宝の海とも称されている。いわきで水揚げされる水産物は常磐物と呼ばれて、上質な水産物として有名だ。メヒカリ、コウナゴ、ウニ、アワビ、カツオ、マグロ、ヒラメ、カレイ、サンマ、などなど、豊富な魚種が獲れる。震災前は福島県で約2万5千トンの水揚げがあり、そのうち小名浜港はその半分の約1万トンを占めていた。

 2011年3月11日の大地震による津波では特に福島県北部は9m程度の津波に襲われ、漁船、漁港に大きな被害があり、また多くの死者が出た。南部のいわきでも5~6mの津波が観測され、多くの物が流された。船が岸壁に打ち上げられたり、港に沈没したりした。また魚市場はガラスが割れて、中はめちゃくちゃな状態になってしまった。その後、ガレキの撤去や破損した設備の整備など、苦労したことが多かったが、さらに大変だったのが原発事故による放射能汚染水の問題だ。

 事故発生後、4月には海水から高濃度の放射性物質が検出され、その後、貯水タンクに保管していた高濃度の汚染水を、東電は意図的に海洋に放出。13年には汚染地下水が継続的に流出していることが発覚した。さらに15年、漁業者たちは海側遮水壁を完成させるために、苦渋の選択として汚染地下水をくみ上げて浄化したのちに放出することに合意した。その際に漁業者と国・東電が交わした約束が、「関係者の理解なしには、いかなる処分も行わない」というものだ。

 事故後、2011年3月15日には、県内の漁業操業1年間の停止を申し合わせた。出荷制限が解除になった水産物から試験操業が開始されたのが2012年。対象種は約2万件の放射能モニタリング検査結果から、安全が確認された魚種を選定。結果を踏まえて、何段階もの協議を経て、最終的に判断された。2012年6月にはミズダコ、ヤナギダコ、ライトマキバイの3種が流通した。出荷制限が解除された魚種は次第に増えて、2017年には97種、2020年3月にはクロソイを除いて、出荷制限は解除されている。水揚げ量も2022年には5500トンまで回復したが、まだまだ震災前の2割程度の水揚げだ。

 震災と津波で打撃を受けた魚市場は新たに再建された。衛生面などを勘案して閉鎖型の施設になり、冷凍冷蔵施設が備えられた。また放射能の自主検査のために、魚を前処理する部屋も設けて、専門のスタッフがその日に水揚げされたすべての魚種について検査を行っている。

 試験操業自体は2年前に終了し、現在は本格操業に向けての移行期間になっている。しかし、本格操業に向けてはいくつかの課題が残っている。一つは原発から半径10km圏内では操業していないこと。もう一つは操業自粛のあいだに仲買人が減少してしまったことだ。操業自粛や試験操業のあいだに、福島産の水産物を除いた流通が確立してしまったのだ。
 原発近くでは操業していないことについては、原発構内で放射性セシウムが非常に高い水産物が確認されているという懸念材料がある。今年4月には1kgあたり1200Bqのアイナメが漁獲されているし、5月には8000Bqのクロソイが漁獲されている。放射能汚染水は今も港湾内に出ている。東電はこういった魚を駆除しているというのだが、疑問だ。もしこういった魚が港湾外で見つかると、これまでの努力が水の泡になる。

 アルプス処理水の海洋放出は、8月24日に始まったが、今も反対には変わりがない。漁業者としては、アルプス処理水の海洋放出については、まず風評被害を懸念している。処理水に関して、理解の醸成がいたらないのではないか。また長期にわたる放出で、アルプスの性能は維持されるのか。中国はさっそく日本産水産物の輸入禁止に踏み切ったが、禁止が長期にわたった場合、補償は十分になされるだろうか。漁業者は国や東電に対する不信感をどうしても拭い去ることができない。関係者を軽視し、あるいは無視した対応にあると思っている。廃炉に関しても不透明なことが多すぎて、処理水の放出も予定以上の長期にわたるのではないか。状況を注視していきたいと考えている。


考証館は被災者の思いを表現する

 いわき市の原子力災害考証館(以下、考証館)は、老舗旅館の「古滝屋」に2021年3月12日に設立された。「この災害の教訓を残したい」という気持ちの有志でつくった完全民営の施設だ。館長の里見喜生さんからお話を伺った。

 原子力災害考証館に入室してすぐに目につくのは浪江町の同じ場所を撮影した、2014年と2020年の、中筋純さんによる避難指示解除前後の街並みを写した一連の写真作品だ。2014年には住民が避難して寂れた街並みが、避難指示が解除された後の2020年には取り壊されて一変し、あるいは更地になってしまっている。歌人の三原由紀子さんの歌が添えられている。「わが店に/売られしおもちゃの/ショベルカー/大きくなりて/わが店壊す」。人にとって忘れがたい思い出が壊されて更地になってしまうという原子力災害の意味を、中筋さんの写真や三原さんの歌は伝えている。



 考証館の中心に展示されているのは、木村紀夫さんによる、亡くなった次女・夕凪(ゆうな)ちゃんへの思いを凝縮したような作品だ。放射能汚染による入域制限のために、夕凪ちゃんの捜索は阻まれ、5年9カ月後にようやく見つかった夕凪ちゃんの遺品のランドセルとマフラーが展示されている。木村さん自身が集めてきたいわきの流木が、津波と放射能災害を象徴するように組まれ、その中に遺品が、あたかも今見つかったかのように置かれている。3・11直後の捜索では何人かが人の声のようなものを聞いたという。しかしすぐに入域は禁止され、時間だけが過ぎていったのだ。木村さんの想いは察するに余りある。

 さらに、福島やそれ以外の都市でも取り組まれている原発事故に関する裁判闘争の資料が展示されている。それぞれの裁判には多くの人びとの、それぞれの思いが詰まっている。補償金目当てだという被害者を鞭打つような声もあるが、裁判に向かう人びとの思いはそのような物差しではとうてい測れない。膨大な資料のひとつひとつに当たることはできなかったが、この展示の後ろに控える人びとの思いを想像すると、改めて原子力災害の惨さを目の当たりにするような気がする。語りきれない思いにこそ耳を澄ますべきだろう。

 「ここにあるのは、展示ではなく表現なのです」という里見さんの言葉が心に残った。


汚染土を集約する中間貯蔵施設

 考証館は昨年1月にさらに1室を拡張して、中間貯蔵施設の問題をめぐる展示にあてている。30年中間貯蔵施設地権者会の門馬好春会長から話を伺った。

 中間貯蔵施設は、放射能汚染を蒙った福島県内の除染事業によって仮置き場に保管されていた汚染土壌を集約する施設で、福島第一原発を囲むように双葉町と大熊町にまたがり、面積は約16平方km(1600ha)、東京ディズニーリゾート8つ分の大きさだ。

 中間貯蔵の動きは震災後、半年ぐらいにはすでに始まっていた。福島県と大熊町、双葉町が「苦渋の決断」として、施設の受け入れを表明したのが、2014年。2014年の12月には地権者会が設立された。2015年の3月には汚染土壌の搬入が始まったが、中間貯蔵事業を定めたJESCO(中間貯蔵・環境安全事業株式会社)法によると、汚染土壌は2045年3月までに福島県外で最終処分することになっている。中間貯蔵施設の稼働は30年という約束なので、そのことを改めて確認するという意味で、30年中間貯蔵施設地権者会と名付けたのだと、門馬さんは語った。

 門馬さんによると、中間貯蔵施設の敷地は、もともと全面国有地化でスタートした。しかしそれでは30年で搬出・返還という約束が反故にされるという疑いがあり、また先祖から受け継いだ土地を手離すのは忍びないという思いから、福島県も地権者も納得せず、土地売却契約と地上権契約という折衷案となった。現在は契約の80%が売却。160件弱が地上権契約で、面積は約260haとなっている。双葉町や大熊町の町有地は、30年後に土地の返却を求める担保のために地上権契約にしているという。

 しかし、国は全面国有地化を諦めたわけではなく、地上権契約者に対してさまざまな嫌がらせを行っている。たとえば営農賠償については、地上権契約者にも支払うという言葉だったのだが、地権者との契約が進むにつれて、地上権契約の地権者には途中から支払わなくなった。また、仮置き場との比較を行うと、仮置き場の土地価格は3150円/㎡に対して、中間貯蔵施設の土地価格は1200円/㎡。地代は、仮置き場が4年半で累計が850円/㎡に対して、中間貯蔵施設は30年で840円/㎡。4年と30年がほぼ同額だ。公共工事についてはきちっと国のルールに基づいた進め方をするべきだと、門馬さんは地権者会の代表として、また個人の地権者としても、環境省との厳しい交渉を続けている。

 考証館の部屋には、実家の田んぼ脇に立つ門馬さんの姿を写した、フォトジャーナリストの豊田直巳さんによる写真が掲げられている。ススキが背丈以上に繁茂し、原野のようになってしまった田んぼの脇に立つ、白い簡易防護服姿の門馬さんの姿が寂しげでもあり、またひとり立つ意志を感じさせた。



 門馬さんの父と祖父、またおじさんは、もともと昭和15年まで原発敷地内、福島第一原発2号機の西側に住んでいたという。そこに陸軍が来て、飛行場建設のために追い出された経緯がある。飛行場は敗戦近くには特攻隊の訓練に使われていたそうだ。捨石塚というのが今も大熊町には残っている。ご先祖様の霊にも促されて、門馬さんは頑張らざるを得ないのだと言う。

 最終処分場の見込みもないまま、政府は8000Bq/kg以下の汚染土壌について再利用を進めようとしている。原発敷地内での再利用は100Bq以下という数字だったのだが、その80倍だ。100Bqのものを全国に持っていくとしても、話し合いを重ねて、納得の上で実施すべきものだが、あろうことか8000Bqの土壌をばら撒こうとしているのだ。

 昨年末から所沢市の環境省環境調査研修所や新宿御苑の環境省関連施設の花壇での実証事業に向けての動きがあり、またつくば市の国立環境研究所でも実施を検討している。8月に始まった処理汚染水の海洋放出は世界の問題でもあるが、この汚染土の問題も日本のどこへでも持っていく可能性があるので、自分の事として、国民一人ひとりが考える必要があるのだと、門馬さんは強調した。


町議・木幡さんに聞く大熊町の現状

 次の日は朝から雨が降りしきった。いわき市の古滝屋を出発し、常磐道を北上、大熊町へと向かう。

 大熊町は横長の地形で、東北端の海沿いに福島第一原発が位置している。それを囲うようにして、JR常磐線の東側には中間貯蔵施設が広がっている。町の南西部一帯は避難指示解除準備区域と居住制限区域に指定されていたが、2019年4月に解除された。町のかつての中心地、JR大野駅周辺一帯は帰宅困難区域だったのだが、特定復興再生拠点区域として、2022年6月に避難指示が解除された。しかし、2023年8月末時点での居住者は105人(住民登録数5749人)と、復興への道のりは始まったばかりだ。

 一足先に避難指示が解除された旧居住制限区域の大川原地区は町の南端の中央部に位置する。避難指示解除に伴って、大熊町の新庁舎が移転、建設された。また2021年にはいくつかの店舗が集まった商業施設がオープンし、引き続いて交流施設や宿泊温泉施設もオープンし、現在の町の中心になっている。

 交流施設のLinkる(リンクル)大熊で、大熊町会議員の木幡ますみさんからお話を伺った。同席していただいたのは門馬好春さんと考証館運営メンバンーで大熊町在住の西嶋香織さん。同じく運営メンバーの鈴木亮さんはリモートで視聴していただいた。



 木幡さんにはまず最初に福島原発をめぐる現在の状況について、率直なお話をしていただいた。それによると、原発の安全神話は形を変えて今も続いている。東電は廃炉の工程を30~40年としているが、福島原発の状況をあまりにも甘く見ているとしか思えない。燃料デブリは1~3号機を合わせて880トンもあるが、計画されている2号機での試験的な取り出しは数グラムの見通しだ。事故原発で溶け落ちたデブリの取り出しなど、まったく未知の領域で、今の科学技術ではとうてい対応ができない。原発内の作業員たちは放射能汚染に晒される可能性のある危険な作業に従事することになる。

 国や東電は、若者たちを廃炉作業に駆り立てようとしている。事故以前には原子力を志す若者たちは少なかったのだが、事故後、廃炉に向けて、機械工学、ロボット工学、原子力工学と、若者たちを鼓舞して大熊の方へと向かわせようとしている。福島の高等専門学校の生徒たちも、原発、廃炉関係の進路へと誘導されていると言う。それはまるで、戦争へと動員されるかつての社会状況に通じるものではないのかとも思う。

 女性たちは自分の夫や息子が原発で働くことが本当に怖いと思っている。それは東電社員の家族も同じことだ。しかし、それを口にはできない状況がある。中間貯蔵施設のこともそうだ。国道6号線の東には放射能で汚染された中間貯蔵施設、西側には住民たちが暮らす町があり、隣り合っている。怖いということはみんな分かっている。帰ってくる人も安心して帰るわけじゃない。だけど老人たちは故郷で死にたい。だから怖いけれども、帰ってくるのだ。

 木幡さんの話を受けて、門馬さんが続けたのは、特定復興再生拠点区域など、避難指示が解除された地域についての、固定資産税などの問題だ。双葉町でも大熊町でも、解除に伴って、家屋を解体する区域と期間を決められる。その期間であれば、解体費用は国と町が面倒を見るが、それを過ぎたら費用は自分持ちになる。住民たちは自分の家を解体するか維持するかを迫られることになる。新築の家ならば身を切るような判断になるだろう。さらに問題は家屋を解体した後で、更地になった土地にも固定資産税がかかってくる。地主の人たちは借地人も出て行って、地代も入らないのに、固定資産税だけがかかってくる。自分がそこに住んでいるならまだしも、避難先との二重生活で、税の支払いに苦しむことになる。また一方で、出て行った借地人にはなんの補償もないという問題もある。

 原発事故から12年が経過して、問題はさらに複雑になっている。けれども、その深刻化した問題を口にすることができない状況がある。本当はみんな危ないと思っているのに口にはできない。そんなことを口にすると、これからみんな帰ろうと思っているのに、なぜそんな嫌なことを言うのか、という空気が生まれている。実はマスコミも含めて、本当の情報が出されないのが大きな問題だ。

 大熊町で子育てをする西嶋さんからも、町民のワークショップみたいなものはたくさん開かれているが、そこでは原発の問題はタブーになっていて、絶対出てこないという指摘があった。放射能の問題についても絶対出てこないし、口にできない雰囲気だと。だけど、みんな心の底では気にしているのかなと感じている。

 税金の問題は本当に深刻だと、木幡さんは言う。危ないところだと思っていても、税金を子どもたちに負わせるわけにはいかないので、老人たちが戻って大熊で見守っていくしかない。そのために、町は大野駅の近くに老人ホームを建設している。帰ってきた老人たちは老人ホームで故郷をずっと見守って、税金は年金で払えるようにしたいというのが願いだ。

 木幡さんの知り合いの農家は震災前、朝早く、間違って3時に起きてしまって、しょうがないからずっと草を刈っていたと言う。朝早く起きて草を刈って、馬や牛がいたら草をやって、それから田んぼの水回りを見て、畑もきれいにして、それで家に帰る。夏など今年のように日照りが多いときは、水戦争だ。女性たちも家族の世話や農作業に明け暮れて、夜寝るのは家族が寝静まった後。百姓は、なぜ、こんなにしんどいことをしなければならないのかと思うことも多い。

 でも、賠償のお金を使い果たして、思い出すのは忙しい百姓仕事のことだ。田畑は放射能に汚染されて、帰ることができない。もう一生米作りができないのかなと悲観して、首を吊った人もいる。百姓仕事は大変だけれども、正月にはみんな集まって、料理を楽しんだり、酔っぱらったりした。いろいろの季節の行事にはみんな集まって、楽しんだものだ。一時の賠償金や交付金の代わりに、奪われたものの大きさを、みんなは感じている。

 だけど、またいろいろと物議をかもしだすから口には出せないのだと、門馬さんは言う。12年経って、自分も年も取ってきたし、税金もかかってくるし、どうしたらいいのかと悩んでいる。孫や子どもたちは避難先で生活しているから、帰ってこられるのは自分だけ。家族の分断、夫婦の分断、税金による分断とか、いろんなものが今、複合的多重的に時間の経過とともに、重なっている。でも声を出せる人がいない。役場でも議会でも声を出すと異端児扱いされ、そんなことを喋るな、みたいな空気がある。

 それでも、木幡さんは町会議員として声を上げている。中間貯蔵施設の問題、処理汚染水放出の問題を始め、さまざまな問題に声を上げている。自民党が多数の議会だが、実は心の中ではみんな思っていることだ。町会議員としての立場を利用して、経産省も呼び出して、政策を糺している。大熊・双葉の問題は本当は日本中の問題なのだから。


大川原地区からJR大野駅周辺

 降りしきる雨の中、木幡さんの案内で、車中からだったけれども、大川原地区から復興再生拠点区域のJR大野駅周辺を案内していただいた。

 しばらく走ると、ポツポツと一軒家が目に入る。誰も住んでいない家だが、いかにも震災前に建てたばかりという外観だ。壊すのは忍びないのでそのままにしているのだろう。また、壊そうと思っても人手が足りないという事情もあるようだ。かつて街並みがあったところも、孤立した家が取り残されたようにあるばかりだ。

 道路の両脇にはかつての田んぼが広がっているが、背高泡立草(セイタカアワダチソウ)が人の背丈ほどにも繁茂して、黄色い原野のような景観だ。一度は除染のために草を刈ったそうだが、すぐに荒れ地に戻ってしまった。

 すぐ林の向こうは帰宅困難区域で、そこには木幡さんの実家がある。家そのものは林に隠れて見えないが、あのあたりには2011年以降、泥棒が頻繁に出現したと言う。また、勝手に住み着いてしまった人もいる。野生動物にも荒らされて、もう誰も行きたいとは思わない、気持ちが悪くて。

 構造改善事業によって田んぼをまとめて大きくしたところも、雑草が生い茂って見る影もない。取り残されたように農家がぽつんと残っていた。付近には消防の建物が半壊のまま残されていた。また、その隣にはがらんとしたライスセンターの建物。専業農家もいたこのあたりの米作りの姿が偲ばれる。

 町営住宅、大野病院、縫製工場、花屋さん。無人のまま、風景の中に取り残されたような建物が現れては視界を通り過ぎていく。大野病院は新しく建て替えられる予定で、工事が始まっている。大野病院の隣には老人ホームが作られることになっている。JR大野駅の周辺では旧市街は取り壊されて、大規模な整地工事が行われているようだった。インターチェンジも大きくして、ガソリンスタンドも整備し、レストランなども建設する予定だという。かつての大野中学校は解体されて、太陽光発電所が建設される計画だ。スマートコミュニティーといって、原発の電気に頼らない街づくりを目指すそうだ。

 大河原地区に向かうと、今は閉鎖された保育所があった。お母さんたちも安心して働けるようにと、ゼロ歳児保育を行っていた。すぐ近くにはこれも閉鎖された双葉農業高校があり、その向こうには梨園跡の空き地が広がっていた。原発事故のために荒れて、どうすることもできないまま伐ってしまった。かつては近所のお母さんたちも花粉付けなどの作業に携わっていた。大熊の梨は鳥取の梨を上回るほどで、東京の市場では有名だったのだと言う。今はただ空き地が広がっているばかりだ。

 最後は大川原地区に戻り、東電社員の寮。原発の廃炉作業に従事している社員たち。なんかかわいそうだよね、と木幡さんは言う。ずっと閉じ込められて、原発との往復で。ある意味で、廃炉という夢も希望もない仕事で。でも、この人たちがいないと廃炉もできないんだよね。

 雨に濡れた風景を眺めながら、何か言葉にはできない、悲しみとも怒りとも言い切れない、何か複雑な感情が視界の内外を巡っていくようだった。


飯舘村のその日は、3・15

 小雨の中、大熊町から飯舘村へ移動し、飯舘村で放射能測定を続ける伊藤延由さんと落ち合う。



 伊藤さんは2009年にIT会社が飯舘村に開設した研修施設に勤務することになり、震災前年には無農薬の米作りを行った。社員やお客さんにも評判で、翌年にはさらに面積を拡大しようと準備していた矢先に福島原発の事故が起こった。

 3月11日に東日本大震災があり、原発事故が起こり、よく3・11という日付が口にされるが、飯舘村では、3・15が問題の日付だ。3・11の地震では倒壊した家屋はなく、被害は軽微だった。ところが、原発事故による放射性物質を含んだ雲が3月15日に飯舘村を襲い、夕方には雨になり、それが夜半には雪になって、放射性物質を降らせた。放射能のモニタリングポストの数値は44.7μSv/h。通常の1000倍の汚染を示した。

 飯舘村は面積が230平方キロメートル。そこに震災前は6500人が暮らしていた。ちなみに、大阪市は225平方キロメートルに275万人。飯舘村は自然豊かな所だ。雪が解けると福寿草が咲いて、水仙が咲いて、あじさいは今でもきれいに咲いている。秋には居ながらにしてモミジ狩りができる。自然の恵みも豊かで、雪が解けるとフキノトウが出て、タラの芽とウド、ワラビが出て、秋になると栗。アカマツの根元には松茸がたくさん採れる。三世代同居が35%ぐらいあり、おじいちゃんとおばあちゃんが孫の面倒を見て、若手が現金収入を得て、土日に農業をやって米作りをするという、貨幣経済に現れない豊かさがあった。

 原発事故により、2011年4月22日に、飯舘村は全域が計画的避難区域とされた。その後2017年3月31日には帰宅困難区域に指定された長泥地区を除いて避難指示が解除された。長泥地区は特定復興再生拠点区域に指定され、その一部で避難指示が解除されたのは2023年5月1日のことだ。

 自然豊かな飯舘村だが、現在村には道の駅に売店とコンビニがあるだけで、食料品の調達には南相馬や川俣へ行かなければならない。路線バスはなく、クルマが生活には欠かせない。2023年9月1日現在住民登録をしているのが4731人。そのうち村に戻って生活しているのは約1218人。新たに転入してきた人を合わせて1500人ぐらいが村内で住んでいるが、毎日暮らしているのはその半分くらいだろう。74%が60歳以上だが、診療所は1カ所だけで、診療日は火、木曜日、外科と内科だけだと言う。

 現在の飯舘村の汚染状況について説明するにあたって、伊藤さんは簡単に放射線被ばくに関する留意点を説明した。まず、知っておかなければならないのは、放射線被ばくに関しては、この値以下だと安全だという値はないということだ。どのような低線量の被ばくであってもそれに伴うリスクはある。にもかかわらず、原発事故による放射線被ばくのリスクに関して、国や行政はほとんど語ってはいない。

 原発構内で働いている作業員は、年間5mSvで白血病や甲状腺がんを発症したら労災認定される。しかし、福島の住民はなんの説明もないままに20mSvで帰還を促される。原発構内では100Bqがクリアランスレベルとして定められていて、汚染された作業着などはドラム缶で保管されるが、地域では8000Bq以下は特措法で大丈夫だとされている。伊藤さんはこのような政府の政策に対して、放射能の影響はそんなに簡単には終わらないのだということを事実をもって証明しようとして、放射能測定を続けている。

 農地の汚染測定では、福島以外の土地では10~20Bq程度が確認されるが、村内34カ所の除染済みエリアから採ってきた土の平均は8,800Bq。未除染の所では2万6,000Bqが測定された。また、つつじの花や落ち葉にも放射能が観測された。樹齢百年の杉の木を輪切りにした物も放射能の存在が確認される。コナラの幼木は、どんぐりから芽が出た葉っぱにはほとんど出ないが、2年目になると根っこからセシウムを吸い上げて、葉っぱに貯まる。葉っぱはやがて枯葉になり、腐葉土になるが、セシウムはそこにとどまって、また木に吸収されるということを繰り返している。だから腐葉土は危険だと言える。

 伊藤さんは特に野生のキノコなどをライフワークとして測定している。その日も、道の駅に設置された測定器で採取してきたヒラタケを調べたが、4000Bq/kg弱の結果だったと言う。ちなみに食品基準は100Bqだ。東京新聞がこの秋に伊藤さんとともに野生キノコについて調べたところ、食品基準の7~500倍の放射能が検出され、とても日常的に食することができるものではなかった。野生キノコの値は、環境の放射能汚染を如実に示すものでもある。

 飯舘村では米の作付けは、去年は25%ぐらいで始まっているということだ。農地は除染済みでもあるので、白米にはほとんど放射能は検出されない。しかし、飯舘村で除染された面積は25%でしかない。75%はいまだ手つかずのままで、厳然として数万Bqに汚染されているのが実情だ。農業の復興はまだまだ先だ。


避難指示が解除された長泥地区

 飯舘村で唯一帰宅困難区域に指定され、この2023年5月に避難指示が解除されたばかりの長泥地区に向かった。伊藤さんには我々のクルマに同乗していただき、道中説明を受けながら山道を走った。長泥地区は飯舘村の南端に位置し、その南は浪江町、帰宅困難区域に接している。

 車中で伊藤さんから放射線測定器をお借りして、線量を見ながらお話を伺った。線量は0.15μSv/hあたりだったのが、急に0.25、0.28と上がった。車中は車体による遮蔽効果があり、また道路は除染されているので低めに出るが、山は未除染なので山際を走ると線量が跳ね上がるのだ。

 一見すると何ということもない田舎道であり、山道なのだが、伊藤さんの説明では除染作業に伴って家屋の多くが解体されたと言う。かつてのガソリンスタンドもなくなって、更地になっていた。

 長泥地区に入ると、川沿いに大きな土木工事を行っているのが見えた。環境省は汚染土壌を資源として利用しようという計画を持っている。その先行的な実証実験だという。L字型のブロックを並べて積んで、そこに汚染土壌を入れ、その上に50cmくらいきれいな砂を入れる。それで放射能を遮蔽するという。そこを農地として利用するという計画だが、飯舘村での実証実験を踏まえて、全国での利用を進めようとしている。強く汚染された長泥での実験はそれなりに意味はあるが、全国に汚染土を拡散するのは意味が違うと伊藤さんは言う。300年間掘り返さないこと、災害で流出しないことが絶対条件だが、そんなことは不可能だし、放射能の拡散はやってはいけないことだ。

 また、大規模な整地作業が行われている場所があった。整地作業と言うよりも、新規の大規模な造成地という印象だ。コミュニティーセンターだそうだが、公民館や何棟もの新築の建物が見られた。また、バーベキューの設備が設けられているようだった。復興増税によって大きな資金が投入されているのだ。

 山道を走り、峠のようになっている浪江町との境界では線量計は1μSv/hを超えた。道路は除染しているが山際では6μから場所によっては10μを観測するという。そこから先は浪江町の帰宅困難区域で、道路は通行可だけれども、わき道にはバリケードが設置されて、入れないようになっている。長泥の数値がかわいらしく感じるほどの汚染度だと言う。

 一方で、長泥地区は部分的に避難指示が解除されたが、まだ帰宅困難区域は残っている。しかしその境目には表示もバリケードもない。避難指示の境界を曖昧にして、事実上飯舘村の全土で放射能汚染が終息したことにしようとしているのかもしれない。

 セシウム137の半減期は30年。300年経つと1000分の1になり、原発事故前の値に戻ることになる。山林は除染しない方針だから、半減期の30年が繰り返されるのを待つしかないのだ。それが飯舘村の現状だ。本当の復興には300年かかり、それは人間の手ではかなわない。科学技術の結晶である原発の事故のあとしまつとしては皮肉な現実だ。


あとがき

 今回の福島訪問では、双葉町からいわき市、大熊町、飯舘村とまわり、それぞれの場で悩み苦闘しつつ暮らす人びとと出会い、話を聞くことができた。その過程で実感したことは、震災・原発事故から12年半にも及ぶが、放射能汚染の影響はより複雑化し、拡散しているという現実だ。この夏に始まった処理汚染水の海洋放出は、風評被害も相まって、確実に海洋へと放射能汚染を拡散する。また放射能除染土のフレコンバッグは各地から姿を消したけれども、それは地権者たちの人権を踏みにじるようにして中間貯蔵施設に集約され、最終処分の形は見えない。一方で、比較的汚染度の低い土は全国の道路や農地に拡散されようとしている。福島第一原発の事故による放射能災害は終息どころか、海と陸へと拡散されようとしている。

 特定復興再生拠点区域では避難指示が解除されたけれども、復興にはほど遠い現実がある。除染は行われても、依然として放射能の数値は高い。山林は未除染で、ある人が言っていたが、事実上の最終処分場になっている。放射能の影響は町や村の桁違いの過疎と高齢化という現実や、復興の掛け声に消されがちな、人びとの不安や怖れという形でも表れている。声には出せない思いを、大熊町では聞くことができた。そのような福島の現実は、実は、福島を忘れている私たちの現実に、深いところで対応しているような気がする。

 私たちはあまりにも知らないし、忘れてしまっている。今回の福島訪問はそのことを幾度も私たちに投げかける問いの連続だったような気がする。原子力災害は決して他人事ではない。福島を訪れるたびに感じることだけれども、また重たい宿題をいただいたような気がする。

追記:今回の福島訪問にあたって、月刊『むすぶ』の編集・発行人である四方さとしさんにご協力をお願いした。また初日の訪問には同行して、助言をいただいた。感謝を申し上げたい。



 震災・原発事故12年半の福島訪問

原子力災害を自分事として

拡散し、複雑化する被害をめぐって