非場所としての詩のエリア
《言葉なくそして僕たちは 非表示の場所にまぎれる…》
そこは場所であり、非場所でもあるところ。外部に排除されてあるもの、内部に隠されてあるもの。見えないもの、削除されてあるもの。言葉ではないもの、言葉にはなりきれないもの。言葉であることを拒絶するもの。それは拡散し、沈殿する沈黙。記憶の深み、忘却の縁。私と何かとのあいだに揺らぎ、微かに呼びかけるもの。冬日に晒された石、その伝言。
それは沸騰するもの。痛みとともにあるもの、いたたまれないもの。私の言葉が立ちすくむ場所。私の言葉がうなだれて、沈黙の内へと退くところ。私が私であるよりも、むしろ私のあずかり知らぬ私である時。私が私でない場所に名前を書き入れ、私の領域に導き入れる時。ある違和感とともに、その時にとどまるということ。私のものではない痛みと向き合い、平行してあるということ。私の場所を開くということ。沈黙の沼に、試みの言葉を落とすということ。沈黙の石を、言葉の沼に落とすということ。
私の詩のエリアは例えばそのような場所だ。あるいはそのような場所で試される言葉でありたいと思う。非場所としての詩のエリア。
私は確かなこと、確かなもの、確かな言葉を求めている。切実さということを手がかりにして。状況のただ中に晒されている者として、今私が発する言葉がどれだけ切実なものであるのか。今回の詩集『ダンボールの空に』(エリア・ポエジア叢書C)では、野宿者たちのテントと保育園の畑に対する行政代執行という二つの事件を重心にして、詩の言葉を重ねた。ともに「場所」が行政によって強制収用されるという経験だ。場所が奪われ、視界が閉鎖されたとき、場所は非場所として私の詩のエリアに転移する。喪失のただ中において、場の切実性というものがあらわになる。確かなものは「場所」「地域」「エリア」そのものではない。場所が非場所とせめぎあう界面、あるいは場所のただ中において噴出する非場所、場所の切実性が作動するのはそのようなところなのではないか。そして非場所とは、他でもない、今ここにいる私であり、当事者としての彼らでもある。私たちは場の特異点として、つねに切実な現場なのだ。
居場所を奪われ、追われた者たちの声や痛みはすでに塗り込められ、記憶の深みに葬られようとしている。だが、沈黙は言葉の不在ではない。むしろ沈黙は強権的な言葉、力のある言葉、説得する言葉、政治的な言葉に対峙し、今この場所にべっとりと張り付いて、こちらを見ている。言葉と沈黙の境界は静的な面ではなく、ざわめき、うごめき、せめぎあう動的な非場所だ。そこが現場なのだ。
私たちの言葉は今、膨大な言葉、情報の洪水によって支えられ、流通している。マスコミ、インターネット、流行語、株価、食品表示、選挙運動、法律、民族、国籍、会見、釈明…。この膨大な氾濫の中で、確かなものはむしろ疲弊している。確かなものの核心にある「私」も「私のエリア」も揺らぎ、とめどもない流動の中にあるかのようだ。沈黙としての場所に否応なく私たちは入っていく。
《…あるいは場所が 僕たちの中に》 |