詩集「時間の草」 豊原清明 著
1999年のガキたち
太陽が光っているのに
僕の部屋はカーテンを閉めたままさ。
今、僕はうきうきしている。
人生という
名前のない日々を。
太陽が輝いている場所で生きているんだなあぁと
しみじみ思えるのである。
僕の名前は
親から付けられた。
誰だって
そうだろう。
この闇に広がる
明日って、一体何なのだろう。
僕の明日は閉められたカーテンを開ける。
時間がないので
僕は焦るのだ。
平均寿命って奴かな。
ヽ
太陽を駆け巡っている。
時間の底を歩いている。
渚の、風の向こうを
歩いている。
或は砂をかんだ味がする愛
僕の瞳は君しか見えない。
君がこの世に
いることだけが
僕にとっての喜びだ。
少年の頃のときめきを。
太陽の踵が割れている。
太陽が光っている。
今日もしょうこりもなく
生きている。
人間だということが
はっきりと分かるからだ。
爆発した
火山。
光っている
ことばの露。
僕は跳ぶよ。
この世へ跳ぶよ。
いつになっても帰ってこない
1999年のガキたち。
2005年6月10日 ふたば書房 制作・発行
たとえば「ニート」たとえば「ひきこもり」たとえば「自傷」たとえば「フリーター」…そんな、時代の表層をあらわす言葉がある。使うことによって、何か分かったような気になってしまう言葉。時代の言葉。
著者の豊原さんは、そんな時代のただ中を生き、言葉のはしばしからうかがうに、そんな言葉によってあらわされている現実ととても近いところにいる。
しかし、豊原さんの詩は、むしろそのような言葉からは遠い。「僕は文学青年ではなく、生きるために詩を書き続けてきました」という彼の句作、試作が、そのような表層的な言葉をつき破る場所にまでとどいているからだと思う。
詩にとって、公約数的であり、その意味で多数であり、その意味で正しい、ということにはなんの意味もない。むしろ個の方へ、(内的な)現実の方へ、そしてそれをつき破ることによって、より深い共振を求める言葉へ。その時、詩は時代に対する「宣言」に近づく。そんな場所に近いところにあるような気がする。