詩の脱領土化の方へ


 あの日は寒く
 感情までもが毛羽立った
 音のない都市の鳥肌を滑って
 光景が壊れた


9・11。
炎上する世界貿易センタービル。瓦解したペンタゴン。
寒さと無音。
光景に直面した絶句の感覚。
だが、それは本当は寒さなどではなかった。そのような体感的なものではなかった。あえて言えば、熱量の不在。零度の光景体温。
その映像に、音がないのではなかった。それは光景による伝達の拒絶であり、いっぽうではまた、僕たち自身による受容の拒絶であった。
寒さと無音。
その真っ只中に立ちすくみ、僕たちは9・11を目撃した。

 乗客もろとも突入する機影

9・11、その日僕たちが見たのは、徹底的に異質な光景であり、端的に言って、異物だった。それは見たこともない、想像したこともない光景であり、僕たちの暮らしというものの感性の埒外だった。
僕たちは旅客機が武器として使用されるということが分からなかった。数百人の乗客を有無を言わせず道連れにするテロルというものが、僕たちの倫理観にとって理解不可能だった。冷戦後の一極支配の、グローバリズムの総本山とも言うべきアメリカの中枢が攻撃され、しかも無残に破壊されたということが、僕たちの思いもかけないことだった。
寒さと無音。
辺境が中心に炸裂する。
それは徹底的な沈黙であり、絶対的な他者。
ニューヨークの朝の情景を破って、異物が露出する。
絶句する光景。

 被害者というオールマイティー

絶句するアメリカ。
それから、国家的な感情が洪水のように、言論をなぎ倒した。報復が声高に叫ばれた。正義はアメリカにあることが宣言された。
9・11はアメリカにとって聖なる起源とされた。
あれから、新時代が始まったのだ、テロと反テロとの。アメリカは新時代の初めての犠牲者として、オールマイティーを手に入れた。
オールマイティーの最強の被害者。
圧倒的な軍事力と政治力、経済力による圧倒的な報復。戦争。爆撃。
ビンラディンとアルカイダに関わるものはすべて敵であり、アフガニスタン現政権(タリバン)は殲滅しなければならない。
あたかもそれは、自らの絶句を軍事的な饒舌によってあがなおうとするかのように。

 コックピットの、呟きのコーラン

あれから、僕たちが直面しているのは、情報の圧倒的な非対称だ。
アメリカを中心とする反テロ同盟国の、軍事力と政治力を背景にした圧倒的な饒舌に対して、ビンラディン、アルカイダ、あるいはタリバンの寡黙。

戦線は崩壊した。北部同盟軍は地崩れ的に進軍し、タリバン兵はなだれを打って投降している。
だが、これは何らかの解決を意味するだろうか。
政治的、あるいは軍事的な意味ではなく、他ならない目撃者としての僕たちにとって。
9・11。あの零度、あの無音、あの異質性と鳥肌立つ光景の肌触り、あの絶対的な沈黙は、軍事的な殲滅によって、かき消されたのだろうか。
僕たちの戦慄は爆撃によって解消されたのだろうか。
沈黙は、爆破された。
そして他ならない、現代という場のただ中に、沈黙の破片、異物性の微粒子は拡散し、現代の裏皮には偏在する沈黙がべっとりと張り付いている。

 錯綜する前線

21世紀は9・11から始まった。
あるいは、こう言えるかもしれない。9・11において、初めて僕たちはもっとも鮮明な形で21世紀というものを目撃し、体験し、直面したのだと。21世紀とは何か?

9・11は、アメリカのニューヨークという世界の中心に、突如炸裂した前線だ。アラブ、アフガニスタンという辺境が、その真っ只中に露出する。
その時、衝撃に身震いしたのは全世界なのだ。あらゆる前線に、振動が波及する。
だが、アラブ、アフガニスタンは世界の外部ではない。他ならない世界自体が生み出したあるものなのだ。ビンラディンやアルカイダを生み出し、援助してきたのが他ならないアメリカそのものだったように。
9・11とは、外部の敵による攻撃ではなく、グローバル化した世界自らの内部に悪性の腫瘍のように生み出されたものなのだ。外部は存在しない。そのように外部との界面としての絶対的な前線は存在しない。

前線は世界を二つに裁断するものではなく、世界の内部に走る無数の亀裂や軋みのようなものだ。それは世界的な規模のものから、民族、国家、地域、家族、個人にいたるまで、あらゆるレベルに作動する。経済のグローバル化に伴って軋む北と南の前線や、人類の生存をも左右しかねない環境問題などの地球規模の前線から、宗教間の軋轢、資本と労働、世代間の対立、家庭問題から恋愛、個々人の内部における欲望と倫理のせめぎあいにいたるまで。普通名詞の前線から固有名詞の前線、あるいはまだ名前のない軋みのようなものに至るまで。
そしてこれら全ての前線は互いにリンクし、影響しあい、連動しあっている。そこでは原因と結果を腑分けすることはほとんど不可能に近い。全てが全ての原因として、マンダラのようにつながりあっている。
発熱し、振動する無数の前線。そのマンダラ。

 僕は今、沈黙のことを考えている

僕は今、沈黙のことを考えている。9・11の映像の沈黙。対話や伝達を拒むかのような旅客機の孤独と拒絶感。その沈黙のことを考えている。
21世紀は情報の時代になるだろう。グローバルな情報の伝達に支えられて、地球規模の対話が促進されるだろう。しかし、対話は決して沈黙を駆逐することはない。言葉は沈黙とともに生まれたのだ。むしろ、情報化の加速度的な展開、世界大のネットワークによるコミュニケーションの高度化に伴って、沈黙は全く新しい形態として生成し、僕たちの伝達のはざまに明滅するだろう。
あたかもそれはコミュニケーションが、孤独を解消することはなく、コミュニケーションの高度化が、新たなより切実な孤独を生み出すということに似ている。
個人のレベルから地球大のレベルまで、いたるところに錯綜する前線のマンダラ。そこに露出する対話の不可能性。そこに生まれ、また言葉へと回収される沈黙。個人のレベルから地球大のレベルまでいたる情景を走る沈黙。
流れていく沈黙
マグマとしての沈黙
モザイクのような沈黙
テロルとしての沈黙
噴出する沈黙

沈黙が語る
沈黙が叫んでいる
絶句する沈黙
沈黙のただ中へと沈んでいく沈黙

 一刻の猶予にすくみ
 あれから僕たちは
 宙に浮かんでいる


それにしても、あの日の映像がこれほどまでに鳥肌のざらつきを僕たちにあたえるのは何故だろう。
立ちすくむ僕たちはあの時、他ならない僕たち自身のおぞましい姿を見てしまったのではないのだろうか。
自分では決して認めたくはない自分の本当の姿。
意識の表層や道徳観ではなく、もっと本質的なところで作動する僕たちという異物。
あの肌触りを知っている。
地下鉄サリン、少女連続殺人、校門の生首、あるいは九年間の少女監禁、中学校襲撃。然り然り。

磐石の現実は存在しない。
僕たちがいま目にしているのは、奇妙に歪み、ねじれ、砕け、あるいは壊れた情景だ。そして、僕たちがもし真実を直視しようとするならば、それは他ならない僕たち自身の内的な現実でもある。悪は、外にあるのではない。それは僕たちのすぐ傍らにあり、あるいは僕たち自身の内部でかすかに作動を始めているなにものかのことなのだ。
僕たちは浮かぶ者である。廃墟のただ中に浮かぶ者。僕たち自らが浮かぶ廃墟なのだ。

 他者性が目覚める。

炭疽菌テロ、狂牛病プリオン、エイズ、オウム、それらは腫瘍に似ている。それは外部の敵ではない。社会自らが社会の真っ只中に生み出したものであり、それはある角度における僕たち自身なのだ。
僕たちはその都度、合唱し、自らの潔白と悪の排除、根絶を誓うのだけれど、それは決して根絶されることはない。
それは掴み出すにはあまりに微粒子的だし、社会の空気自体が感染しているので、社会自体を根絶しない限り、なくなることはない。

感染しているのは、誰か。

自分自身にも分からない自分というもの
見ず知らずの自分
僕たちは無垢としての自らをすでに断念している。

 私という無垢なる信仰

僕たちは、見ず知らずの視線に晒されている
それは僕たち自身の内部で作動しているなにものかの視線である。
それは僕たち自身によって抑圧された自身。
忘れたはずの記憶
潰された夢
埋葬された悲しみ
鏡の中の僕たち自身。
あるいはDNA
腸内細菌
私というマンダラ。
無数の視線が錯綜する場、そこが私なのだ。

異質な視線が錯綜するということ。
普遍的な
透明な
無垢なる私という視線は存在しない。

 無垢なる私という信仰

私が見ているようには、他者は私を、あるいは世界を見てはいない。
私の私に対する納得は、ほとんど間違っている。
私の私に対する納得がほとんど間違っているということは、他者がそこにいるということだ。
無数の在日がいる
無数のムスリムがいる
無数のホームレスがいる
無数の引きこもりの若者がいる
無数の似たもの同士の他者がいる。
私という納得は、つねに揺らぎの中にある。

 免疫の問題化について

今、僕たち自らの、あるいは社会の免疫の機構は、あきらかにおかしくなっている。あたかも子どもたちや大人の間にまでアトピーが蔓延しているように。自己と非自己とが確定しづらくなっている。他ならない僕たち自身の内部で、他者と自己とが入り乱れ、いたるところに免疫反応の過剰と、免疫の不動作が広がっている。
社会の高度化、コミュニケーションの高次元化、複雑化、高速化に対して、歴史的に形成されてきた免疫の機構が追いつけないのだ。

僕たちの自らに対する納得、あるいは他者に対する納得が軋んでいる。
僕たちの内部に、あるいは僕たちの間に、沈黙が走る。一点の沈黙が視界に滲んでいる。切実性が切実に作動する。

他者に対する免疫の過剰と不動作は、危機という影を落とす。
その過剰と不動作を見ること。
あたかもすべてをなかったことにしてしまう、取り込みと安定化作用の免疫を、そこから裏返し、自らを問題化すること。
光景を、見慣れた風景へと回収するのではなく、状況へと開くこと。
言葉の免疫作用を反転させること。

 詩の脱領土化の方へ

詩は対話の垂直的次元として、コミュニケーションのある側面を担っている。それは言葉が、沈黙へと落ち、あるいは沈黙から立ち上がる運動の次元であり、その垂直的次元は、言葉による言葉の交換としての水平的な次元の運動を下から支え、あるいは上から吊り下げている。
沈黙の形、そのありようが詩を規定する。
かつて沈黙は神として、あるいは自然として聳え立っていた。
あるいは沈黙は、深く暮らしや言葉をおしつつみ、しっかりと囲っていた。
また、沈黙は造形され、個性化され、言葉に方向を与えた。
そのとき沈黙をめざす言葉としての詩は形式をもち、その領土をもっていたと言える。言葉と沈黙は実体としてそれぞれの領土をもち、詩に、その領土性と形式性を与えていたのだ。
だが今、沈黙は微粒子化し、液状化し、沈黙と言葉との界面は絶対的でも、固定的でもない。
それは言葉との界面において生成消滅し、振動し、拡散している。
つまり詩は形式化しえないのだ。
形式によって、詩を囲うことはできない。

詩の脱領土化の方へ
詩とはむしろ作動のことなのだ。

 詩は構築を拒んでいる

詩は言葉の構築物であることを、むしろ拒んでいる。
詩は僕たちの外にあるものでも、外に構築されるものでもないのだ。
詩はもっと切実なものであり、もっと切実に僕たちの内部で、あるいは僕たちの間で作動しているもののことなのだ。
詩とは、言葉の動性を生きるということだ。
言葉が僕たちの内部で、あるいは間で充血する、あるいは貧血する、そこに詩が作動する。
詩は、コミュニケーションのあらゆる形態の背後で作動する。
形式としての喩や韻やリズムが問題なのではない。
いわゆる現代詩の形式と、短歌、俳句、あるいは歌われる歌詞、ポエムと呼ばれるもの、これらはすべて序列化しえない。あるいは、伝統的な意味合いにおいて区分けすることにも、本質的な意味はない。詩はそれらすべての背後で作動しているもののことだ。いや、作動そのもののことなのだ。

根源的な意味において、詩を評価することはできない。
それは生きるということを誰も評価することができないということに似ている。
詩が言葉の動性を生きているのかどうか、ということだけが問題なのだ。

詩にとって、詩論にはほとんど意味がない。それは人生にとって人生論がほとんど意味がないということに似ている。

ということはつまり、僕が言いたいのは、詩を構築の方から見ても得られるものはない、ということだ。

 ガレキへ帰ろう

かつて「飢えた子供たちを前にして、文学になにができるのか」という問いかけがあった。
しかし、今の僕たちにとっては、その問いはあまりに牧歌的に聞こえる。文学の外に飢えた現実があり、現実に対して言葉は無垢なのだという思い込み。
文学が善意でありうるという錯覚。
この世界において、詩だけが純粋だということはありえない。
言葉は、自らを磐石の上に立てることはできない。それは常に不可能を露呈させている。
言葉は常に傷つき、落ち込んでいる。

あらゆる詩論はすでに爆破された。
今や、確固たる詩論のただ中にさえも、無数の沈黙、その微粒子、そのモザイクがうごめいている。
いや、あらゆる詩論がすでに感染している、と言うべきだろうか。

今、
ガレキからの発想が求められている。
伝統的な美意識や現代詩的定型から発想するのではなく、
廃墟から考えるということ。
私という廃墟、言葉の廃墟に踏み込んでいくということ。

ガレキは、無数の切断を晒している。
それは無数の亀裂をはらみ、
無数の痛みを内在させ、
ガレキに言葉はなく、
ただ無数の軋みを放ち、
そこには無数の沈黙が生まれ、走り、接続し、消えていく。

朝の情景に、激突する沈黙
瓦解する巨大な構築
かつて、世界貿易センタービルであった膨大なガレキ
数千の死者としての、沈黙
無数の沈黙の、膨大な磁場。そのガレキ
そこではあらゆる言葉は不可能を自らに晒し、
行く方も分からないまま、終わりのない屈折を続けている。
言葉は傷つき、
そして、自らの履歴を裏返ったところに、作動する。

詩は、ガレキに似たものにならねばならないだろう。
廃墟の方へ
ガレキのただ中へ
もっと近く、もっと

 反転する世界

再び、9・11に帰ろう。
あれは僕自身だったのだ。
あの光景の全体が、僕自身だった。
あの激突する旅客機、それは僕自身に走る一筋の沈黙。
沈黙の一撃が、僕という情景を震撼させる。
毎日というものを震撼させる。
毎日。そこでは光景は絶えず風景のほうへと無化されている。
あるいは、光景はたえず毎日のほうへと繰り込まれて、毎日の底へと重ねられていく。
沈黙の一撃が、その一点において、光景を状況へと開く。

センタービルの巨大なガレキがほの青くスパークしている

作動する、私

どこに言葉の根拠をおくのか、
ガレキに。