忘れないでいるという仕方でしか関われないもの
下前幸一
一九八二年五月に発行された光州連帯詩集の詩集名「光州だけが光っていた」は、ホン・ヨンウンの歌「熱い街」から引用されたものだ。一九八〇年五月、戒厳令下にあった韓国から、全世界に向かって放たれた閃光のような光州の人々の闘いは、様々な形で受け止められ、様々な形での問いかけをそれぞれの心に落し、そこから様々な形での言葉や表現を生み出した。光州連帯詩集はこうした言葉や表現を集め、編まれたものだ。詩としての熟成度はともかく、ここには光州の衝撃を契機にして、自らを振り返り、自らを食い破り、また自らを生み出そうとする言葉の切実なうごめきが、それぞれの深度と角度において表現されている。ホン・ヨンウンの詩からも、光州の光景から受けた衝撃やいたたまれない思いや彼の中で弾けた叫びが聞こえてくるようだ。光州連帯詩集、そこに僕もいた。
昨年十月、ホン・ヨンウンの死を耳にして以来、僕の中で鳴り続けているものがある。それは、呟きのような、うめきのような、言葉のような、歌のような、叫びのような、うずきのような、あるいは低く鳴り続ける地鳴りのような、これとしては言い表せないようなものだ。それは記憶の深みから呼びかけるもののようでもあり、遠ざかっていく残響のようでもあり、また、いまだ来ないものの予兆のようなものでもある。僕はずっと、それを掴まえようとしていたように思う。それを言葉にし、それを名づけ、あるいは逆に、それに自分の名前を貼り付けようとしていたのかもしれない。しかし、掴まえても掴まえても、それは逃げ水のように離れてしまう。手に残るのは、抜け殻や影のようなものだけだ。そんなことを続けて歳月を重ねるうちに、いつの頃からか、もう僕はそれを掴まえようとは思わなくなった。と言うか、それを自分のものとして名づけようとは思わなくなった。それの重みがなくなったわけでも、それが消えたわけでもない。それはたぶんそれのことを忘れないでいるという仕方でしか関われないもののことなのだ。そう。忘れないでいるという仕方でしか関われないものが、僕の中にも確かに、ある。
あれは十台の後半、高校生の頃だ。僕はまだ何も分ってはいなかったけれども、外の世界では、狭山差別裁判糾弾の闘いが高揚し、それを中心にして、各地での部落解放運動が深く広く盛り上がっていた。学生運動などはもうほとんどなかったけれど、熾きのような残り火がくすぶりつづけていた。受験も差し迫った最後の年に、僕たちは荒れた。部落出身の同級生が部落民の宣言をし、部落であることを明かせない高校の教育と受験教育というものを告発した。在日朝鮮人の同級生も、自らを明かし、自らの痛みのわけを問いかけた。言葉は、無力だった。夜の教室で、僕たちは討論のようなことを続け、何も得ることもないままに、それぞれの沈黙へと帰っていくばかりだった。僕は孤独を知った。そこが発端の場所。沈黙の縁で踏みとどまりながら、どうようもなく沈黙の中へと崩れていく、言葉。沈黙との界面で、ただ耐えている、言葉。あるいは、自らをかき消しながら、叫びへと沸騰する、言葉。
三十年近く前の、梅田駅前の、細い階段の喫茶店。薄暗い階段を上りつめると、照明の中に、彼、ホン・ヨンウンの姿があった。ギター一本で、がなるように、叫ぶように歌う彼の姿。彼の声。彼の言葉。それは同級生の言葉、部落民の宣言、在日朝鮮人の宣言、その叫び、その沈黙と重なり合っていた。いや、それはそれそのものだったのだ。歌は、彼の言葉であり、宣言であり、叫びであり、沈黙だった。彼は自作の歌を、自分で歌っていた。だがそれは、シンガーソングライターとか、フォークソングとか、ニューミュージックとかいうような、マスへと昇華し拡散していくようなものではなかった。それは個的だった。現実を昇華するのではなく、現実を掴もうとしていた、さらけ出そうとしていた。四畳半の現実に安らぐのではなく、現実を食い破ろうとしていた。現実から発し、現実に対して叩きつけるものとして、言葉はあった。
一九八〇年。光州事件の衝撃を、彼はどのように受け止めただろう。どのような場所で、どのような痛みとともに、あるいはどのような距離感で、何をそこに見たのだろう。その場所に、どのようにして彼の歌を立ち上げたのだろう。僕は自らの沈黙に引きこもっていた。真夜中の実験室で、目を凝らし、耳を澄ましながら、試料の密やかな呟きに立ち会っていた。そのようにして、自ら自身の沈黙を探っていたのだと思う。一年後の光州を、ひとり僕は歩いた。光州市中のあらゆる路地を、さまようように、憑かれたように、歩き続けた。言葉や思いを重ねても、重ねれば重ねるほど、遠ざかってしまう。どうしようもない無力感といたたまれなさを抱えながら。答える術のない、自ら自身を一個の問いとして。歩いた。光州、その沈黙と叫びに、何ひとつとしてつながる言葉もないままに。歩いた。そのようにして、言葉を探した。その一点において、僕たちは交差したのだと思う。光州連帯詩集…。
一九八九年。大喪の年。二月。京都東本願寺大門前でのライブ。最後に彼の歌が僕の詩と交差したとき。寒い日だった。ポケットに突っ込んだ指先が、どうしようもなく冷たかった。あらゆるものが自粛されていた。報道は一色に塗りつぶされ、沈痛な面持ちの語りが繰り返された。暴力のない、感情の黒い戒厳令。沈黙は組織され、要請されていた。そのようにして、個々の沈黙は収奪されていた。世をあげての自粛のただ中で、昭和の幕が下ろされた。侵略も、植民地も、皇民も、戦争も、大元帥の人間宣言も、闇も、高度成長も、指紋も、公害も、冤罪も、強制執行も、全てをひっくるめて、その根底が哀悼されていた。真冬の風に吹かれながら、ホン・ヨンウン、彼は歌った。
そのようにして、時代の幕を引くものに対して、どうしようもない時代の流れに対して、横並びに対して、日本というものに対して、和というものの馴れ合いに対して、記憶を摩滅させるものに対して、飲み込んだ言葉に対して、言えなかったこと、言いたかったことに対して、見えなかった全てに対して、どうしようもなく疼くものに対して、耐えられない痛みに対して、貧しさに対して、ダンボールの街に対して、悲しみに対して、登録証に対して、光州に対して、去っていく影に対して、まだ来ないものに対して、自分自身に対して、
誰だってそうではないのか。ただ忘れないという仕方でしか関われないものを、ただ忘れないで、ただひたすら忘れないのだ。


