台湾点景      下前幸一

                 タワーレコードの混雑を抜けると 谷間の空が燃えていた 見知らぬ街の迷宮に 昔日の幕は落ちる 台湾的繁華を離れて 触れない切実が遠ざかる 誰の信念だったのだろう 微かに線香の漂うこの街の記憶に張り付いた 一千万の影 僕らはそれぞれの現実にいて ただひとつの確かさからは取り残されている 僕一人の現実に囚われて 記憶喪失の脅迫にうなされる 見知らぬ僕 いつかどこかの待ち合わせを忘れて 言葉の蒸発に追われている 中元前の竜山寺境内に 石の太陽が光線を投げていた 台北下町の情景とよく似た老人が 僕を見ていた 白い忘却の 境内に落ちた影 石の台座に腰を下ろして 消し炭の感情をまさぐる 焼けたマグネット ─ 焦げ付いた汚れをTシャツで拭うと 一九九八の文字が読みとれのだ あのとき僕らはそれぞれの途上にいて それぞれの思惑に運ばれて それぞれの砂漠の窪みに時の傾斜を測っていた 大きな星が落ちようとしていた 世界という幾何はその形を変えようとしていた 誰もが今起きつつあることと もう過ぎてしまった自らの不可逆的変形との齟齬に苦しんでいた できれば見ないままで過ごしたかったことが 巨大な影を投げかけていた 君の知らない都市に僕はいた 硝煙がくすぶっていた 錆び付いた真実や 覇を競い合った肉食獣の 肉体の滅びに虫がわいていた どのようにして僕らは 目前の現実を払拭できるというのだろう 自ら自身の風化に足をとられて 疲れても、汚れても、くたびれ果てても 僕らの日々は七転八倒 どこまでも起き上がりこぼすのだ 茶芸館個室の切り取られた静寂に 僕らはいた 湿った思い出にむせながら カリカリと南瓜の種をかじっている このひとときの寿命は短く 全ては即座にモノクロームの凝固へと変換されていく 思いは急速な酸化にさらされている あれから僕は、信仰が 人形のように人を殺すのを見た 僕の中の原理主義が死んだ日 黒ずんだ太陽がにじんでいた たこつぼの記憶の佇みに 僕らは安らいでいる 無声のスローモーションだ、世界は ベースキャンプのまどろみに 確実に体温は落ちていく 報道はあらゆるまなざしを遮蔽し 世界は自らを発電している 絶えず自らを確かめずにはいられないのだ 現実的な磁場の夢見のダイナモ 台湾ビールを飲みながら、僕は 壊れてしまったもののことを考えている いつかの長い葛藤や瞳の中の水平線や針の痛みを 語ることのできない一切が すでに語られた場所への撤退を強いられている 僕自身の脅えや不安が 流れ始めた回帰線の気流に震えていた 普遍なものよ 善なるものよ 生き難さよ 瞬間の呼気よ 弓なりの岬よ 台北の夜のざわめきよ 弾ける爆竹 呼び交わす切実よ 軒先の真実よ 流通を拒む結界のネオン 反響する透明 不可解な視野のたわみよ そして僕を拒み 僕を肯定する 盗掘された遺跡 焼けたマグネット 風景の磁場よ 僕らは繁華街の安ホテルの一室にいて ついに届けなかった計画や 通り過ぎてしまった思い出なんかを辿りながら どこまでも平行に漂流していくのだ さざなみのような点景や記憶や事実の表面を漂いながら 僕らの背後に細い 細い鎖線の影を引きながら 夜には雨が降りしきった

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